第3の「これがいい」のはなし

「結成したバンドは、いつか 『音楽性の違い』によって解散する 宿命を背負っている」

今日のテーマである 「第3の『これがいい』」の概念を説明するとき、 このかなり乱暴な「バンド解散」の命題を 持ちだしている。

バンドマンがそれぞれ、 メンバーと仲良く音楽活動をしているうちに、

「自分のやりたい音楽」というのが見つかり、 (それはもちろん、 メンバーとのバンド活動があってこそ、 見つかったものなのだが) それを追求するために 「音楽性の違い」によって解散する、 というきわめて陳腐なものだ。

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やりのこしたこと

ただの懐古主義と言われれば、 もうぐうの音も出ない。

僕はこの期に及んで ゲームに手を伸ばしている。 その内訳たるや、今のところ 「ゼルダの伝説 風のタクト」 「ゼルダの伝説 時のオカリナ」 「激闘!カスタムロボ」 「スーパーマリオ64 DS」 とキテいる。

そこにこじつけがましい理由をつけると、 僕は、それらのゲーム(のオリジナル) を子供の頃に「やり切って」いない。

小学生の頃は、 友達の家に行ってゲームを もっぱら「見る側」として楽しんでいた。 そりゃそうだ、 友達の家のゲームだったから。

そして、そのゲームを 自分でも欲しがることなく、 ただ友達のプレイを見て、 結構満足していた。

中学生に上がってすぐに 小学生の頃の友達とは遊ばなくなり、 自分でいくつか持っていた ゲーム機もゲームソフトも売り払い、 めでたくゲームを「卒業」したので、

僕はそれら友達の家で遊んだゲームの ストーリーの終わりを知らない。

それをいまになって、 頭でっかちになることが多いからこそ、

ましてや、いま子供と関わる機会が多く 子どもの感覚に共感することも大事、 などというそれらしい理由をつけて、

いつしかそんな理由などすっかり忘れて ゲームの世界にはまっているのである。

そう、それは あの日遊んだゲームの終わりを知る旅… (遠い目)

僕のリサイクル哲学 のはなし

誰かが「いらない」と思ったものに、 ちょっと手をかけて直してみたり、 見方を変えて使える部分にフォーカスすることに ちょっと大げさだが 自分で見出したよろこび みたいなものを感じていて、 それが、「リサイクルショップめぐり」の 楽しみの核にある。


ぼ多分もうこれは東京にいた 8年前くらいからは既に始まっていたのだが、 僕は休日といえば リサイクルショップめぐりをしている。

そこで、まだ使えそうなものだけれど 人気がなかったり、動作不良品だったりで、 誰かにとっていらなくなったもので 相場よりもかなり安く売っているものを 見つけては、 ちょっと手を入れて使えるようにしてみたり 不良部分に目をつむって、 使える機能の範囲で使ってみたり、 ということに楽しみを見出している。

まぁ、そんなことをしているうちは、 流行から数年遅れたモノを使って 過ごすことになるのだけれども、

流行と関係ない「“おれの楽しみ”感」が、 チマチマとソロ充を目指す僕にはぴったりだ。

まじめの受け皿「まじめトーレランス」 のはなし

他人が、自分の興味関心とは別に、 その人がくそ真面目に向き合っていることを、 自分の理解をよそに滔々と語るのに対して、

もちろん、 完全に理解はできないかもしれないが、 「フンフン…」と聞いていられる クオリティのことを、僕は勝手に 「まじめトーレランス」と呼んでいる。 (「トーレランス」とは 「許容度」を意味する英語のtoleranceから)

平たく言えば、 「なに、そんなにまじめになっちゃってんの」 という言葉がつい、出てしまうまでの閾値が 高いところにある概念をさす。

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くだらないの中に

ひょっとしたら、 くだらないことをどれだけ書けるか みたいなところにこそ、

自分の無意識的に大切にしている思いが含まれていて、 そこに人の心に届くようなことが ポロッと転がっているのかもしれない。

「これは、きっと共感を得られるゾ!」 とホクホクしながら文章を書くと、 どうしても教条的になり、どこか 嫌味になることは避けられず、

「あるある」と認めさせるために どこか、主語を欠いた文章になり、 どんどん抽象的な文章になる。

手の内を明かすようで恐れ入るが、 こうした感覚で書いてきた文章が、 実は結構ある。 こうした感覚で口から発してきた言葉が、 実は結構ある。


第一、おれが「くだらなくないこと」、 すなわち「有意義なこと」と思っていることは 一体なんなんだ?

あったとして、それを 「有意義だから、取り組んでいる (意義がないと分かれば、やめちまう)」 というのは、どこか傲慢ではないか。

ましてや、おれの基準で 「有意義だ」と認めたことを 他人にまで価値観の共有を求めるのは もっと、嫌な感じがする。

選択肢があったときに、 「より、ソーシャルな方」とか、 「より、困難な方」が「有意義だ」とか 思い込んでいるんじゃないだろうか。

逆にだ、 「くだらないと頭でわかりながらも、続けてしまう」 「くだらないと頭でわかりながらも、気づいてしまう」 ことがあるとすれば、それはもう、 「意義がなくとも、自分にとっては必要である」 ということを無意識のうちに認めている 何よりの証拠だ。

「好き」「嫌い」で語るのとは次元が異なる、 その「くだらないとわかっていること」 を排除することなく、時には 頭を悩ませながらも日常に織り込んで、 その存在を前提に生活を送る。それは、 すなわち「愛」だ。

そこに秘められた、極めてファジーで 自分ですら完全には言語化できない思いを 折に触れて浮かんだ言葉で 形容することを続けていったなら、

実はそこにこそ、他人の心に 狭く、深い共感をもたらす思いが あるのかもしれない。

人間の機微 のはなし

人間の機微を感じ取り、 それを知ったうえで 「どうしようか」と考えることは、

(おそらく、世の中には自分とは違う 感覚を持っている人がいて、 自分のおもう「正しさ」では 他人を納得させられないかもしれない、 と考えるようなかんじ)

結局のところ、 他人を理屈で押し切ることを妨げる 自分のうちの「弱さ」を認めることに 通じていて、ただしかし、

その「弱さ」こそ、 人の人間らしい部分だとも思う。

人間の機微とか、そんなことを かんがえているうちは、きっと

「求められたことの遂行能力」こそ劣れども

その良い意味で定まらない、 ファジーな「人間らしさ」が 垣間見えることで、 好かれるのかもしれない。

概ね、そういったケースでは好かれる自覚がない。 いや、好かれる自覚なんてない方がいい。

感じ取った「人間の機微」みたいなものに、 なんとか頭をひねって名前をつけて、 そういう感覚がある、ということにだけ 自覚的であれば、オーケーだ。

「あてがわれた役割」・「手加減の役割」のはなし

「本当の優しさとは 他人に席を譲ってあげることではない 譲られた席には自分で選んだ責任と 勝ち取った喜びがないから」

というのは森山直太朗の隠れた名曲 「優しさ」の歌い出しのフレーズだ。

結局はこれに尽きるのだが、

「役割があってこそ、人は輝ける」という類の フレーズを鵜呑みにして、

チームのメンバーに役割を適切に割り振るというより 「ほら、ココ、空けといてやったぞ」と言わんばかりに 「あてが」って、

「満足ダロウ?」と得意げになる、 そういうリーダーシップのもとで生まれた役割について、

「あてがわれた役割」

とか、

(本当は自分でやった方がいいと思っているのに) 「手加減の役割」

という名前を付けている。