シモジモの民の「しのぐ」術 と おカミのすべきこと という視点のはなし

●7月のハイライトとして、 非常に個人的なことを挙げると 『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』 という本を読んだことだ。

自称・読書家であるにもかかわらず 読み切るのに3週間も要したうえ、

ケインズ経済学の基礎知識が 頭に入っていなかったばかりに、 まだ完全には理解していない。

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「やらない善よりやる偽善」のはなし

「やらない善よりやる偽善」という言葉にさえ、 そこに自分を善人と信じて疑わない人の プロパガンダ的なものを感じてしまい、 僕はそれにたいして懐疑的だ。

大義名分に自分のこころが追いつかない人が ツイッタラーかもしくは 「世論」的なサムシングか何かに影響されて 「やらない善よりやる偽善」と 自らにあえて言い聞かせ、 「偽善」の手助けをしたのちに、

「(あのお金・労力は なんだか気持ちよく手放せなかったが) 人のためになるんだからいい(仕方ない)」と

認知をわざと書き換えるのは 実はからだが「NO」と言っていた結果である 証拠ではないか。 少なくとも、 からだが「GO」と言わなかった結果だ。

同じ「やらない善よりやる偽善」という言葉でも、

からだが「GO」と言った結果 考えなしに手助けをした、その結果 お節介だったとわかった、その結果 「善」にはならなかったから 結果だけ見れば独り善がりの 「偽善」になってしまったそのとき

それ以上自分を責めないための理屈 くらいにしとこうよ。

「正しさ」を帯びた、しかし 自分のこころが追いつかない「大義名分」に 怯え、揺さぶられる自分自身・他人に対して 投げる言葉としてでなく、だ。

他人の「ゆるい」は信じるな

 

ほかの人から見れば 「ゆるく」なんてないのに、 「脱まじめ」をそのまま “まじめに”受け取った人が言う 「ゆるくやろう」は、結構、罪だ。

その人の「ゆるい」レンジは あくまでもその人の置かれている 環境によって基準値が設定されていて、 ほかの人の思う「ゆるい」とは 言葉が一緒でも重ならない部分も多い。

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第3の「これがいい」のはなし

「結成したバンドは、いつか 『音楽性の違い』によって解散する 宿命を背負っている」

今日のテーマである 「第3の『これがいい』」の概念を説明するとき、 このかなり乱暴な「バンド解散」の命題を 持ちだしている。

バンドマンがそれぞれ、 メンバーと仲良く音楽活動をしているうちに、

「自分のやりたい音楽」というのが見つかり、 (それはもちろん、 メンバーとのバンド活動があってこそ、 見つかったものなのだが) それを追求するために 「音楽性の違い」によって解散する、 というきわめて陳腐なものだ。

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やりのこしたこと

ただの懐古主義と言われれば、 もうぐうの音も出ない。

僕はこの期に及んで ゲームに手を伸ばしている。 その内訳たるや、今のところ 「ゼルダの伝説 風のタクト」 「ゼルダの伝説 時のオカリナ」 「激闘!カスタムロボ」 「スーパーマリオ64 DS」 とキテいる。

そこにこじつけがましい理由をつけると、 僕は、それらのゲーム(のオリジナル) を子供の頃に「やり切って」いない。

小学生の頃は、 友達の家に行ってゲームを もっぱら「見る側」として楽しんでいた。 そりゃそうだ、 友達の家のゲームだったから。

そして、そのゲームを 自分でも欲しがることなく、 ただ友達のプレイを見て、 結構満足していた。

中学生に上がってすぐに 小学生の頃の友達とは遊ばなくなり、 自分でいくつか持っていた ゲーム機もゲームソフトも売り払い、 めでたくゲームを「卒業」したので、

僕はそれら友達の家で遊んだゲームの ストーリーの終わりを知らない。

それをいまになって、 頭でっかちになることが多いからこそ、

ましてや、いま子供と関わる機会が多く 子どもの感覚に共感することも大事、 などというそれらしい理由をつけて、

いつしかそんな理由などすっかり忘れて ゲームの世界にはまっているのである。

そう、それは あの日遊んだゲームの終わりを知る旅… (遠い目)

僕のリサイクル哲学 のはなし

誰かが「いらない」と思ったものに、 ちょっと手をかけて直してみたり、 見方を変えて使える部分にフォーカスすることに ちょっと大げさだが 自分で見出したよろこび みたいなものを感じていて、 それが、「リサイクルショップめぐり」の 楽しみの核にある。


ぼ多分もうこれは東京にいた 8年前くらいからは既に始まっていたのだが、 僕は休日といえば リサイクルショップめぐりをしている。

そこで、まだ使えそうなものだけれど 人気がなかったり、動作不良品だったりで、 誰かにとっていらなくなったもので 相場よりもかなり安く売っているものを 見つけては、 ちょっと手を入れて使えるようにしてみたり 不良部分に目をつむって、 使える機能の範囲で使ってみたり、 ということに楽しみを見出している。

まぁ、そんなことをしているうちは、 流行から数年遅れたモノを使って 過ごすことになるのだけれども、

流行と関係ない「“おれの楽しみ”感」が、 チマチマとソロ充を目指す僕にはぴったりだ。

まじめの受け皿「まじめトーレランス」 のはなし

他人が、自分の興味関心とは別に、 その人がくそ真面目に向き合っていることを、 自分の理解をよそに滔々と語るのに対して、

もちろん、 完全に理解はできないかもしれないが、 「フンフン…」と聞いていられる クオリティのことを、僕は勝手に 「まじめトーレランス」と呼んでいる。 (「トーレランス」とは 「許容度」を意味する英語のtoleranceから)

平たく言えば、 「なに、そんなにまじめになっちゃってんの」 という言葉がつい、出てしまうまでの閾値が 高いところにある概念をさす。

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