「社会人間」になるために

学生として学校と自宅を往復する生活を送っているうちは、

勤めをしながら職場と自宅を往復する生活を送っているうちは、


それが「プロレベル」かどうか考えることなく、

「純粋に得意なこと」、「純粋に好きなこと」で

学校や職場以外の社会と関わることを考える必要に迫られない。


でも実はそれって僕たちがいつしか「定年」を迎えたとき、

(死ぬまで定年が来ない時代がくるとすれば、

それはユートピアだろうか?)


いや、そんな遠くの話じゃなくて、

失業したり、あるいは引っ越しに伴って退職したり、

いま通っている学校を中退したりしたとき、


つまり、特に理由がなくとも

とりあえずある場所に通いその場所にいること、

非常に大袈裟に言えば「生きていること」の

大義名分と承認を、もはや学校や会社が保証してくれなくなったとき、

以外とすぐに、しかも否応無しに自分ごととして迫ってくるテーマで、


それを上手く解決することができなければ、

これは大袈裟な話ではなく、

リアルガチで死にたくなるような問題でもある。

 

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話はちょっと逸れるが、僕はしばしば尋ねられる


「やりたいことはあるのか?」という言葉がキライだ。


「言っとくが、それでメシを食える『やりたいこと』だぞ」

というカネ絡みの意図がミエミエで、

たとえば「ギターがやりたいです」という純粋な気持ちが、

「それではメシは食えない」というマウンティングによって

台無しにされるからだ。


(そういう人に限って、ご自身の『やりたいこと』が

(あくまでも自分がマスターとなって承認欲求を満たすための)

「カフェ開業」とか陳腐だから放っておこう)

 

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いつからか「好きなことで稼ぐ」というのがもてはやされ

半ば脅迫的に無意識に付きまとう昨今


僕たちは心のどこかで

(誰に頼まれるでもなく)「好きなこと」や「得意なこと」で

新しい社会に溶け込もうとする営みが、

(その最たるものが、町内会活動だ)

短期的な、目に見えるメリットをもたらさなかったとすれば

なんだか「空振りに終わった営業」のように思えて

それを、心のどこかで「カッコ悪い」「ああはなりたくない」と

思っていやしないだろうか。

その成れの果てが、「会社人間」だというのに、だ。


たとえ特別扱いされなくとも、

たとえお金にならなくとも、

たとえ誰にも褒められなくとも、


自分の得意なことや好きなことを切り口に、

学校社会・会社社会とは別の

コミュニティを持っておいたり、

作ったりすることは、

自分で作ることのできるセーフティネットであると同時に


ときに厚かましく、ときに面倒臭くありながら

実は自分をよりストレスの少ない「社会人間」

(「会社人間」でなく)にしてくれるのでは、

ということを考える。


僕はいまその場所と大義名分を借りているだけだ。

そのことを周りの人々から随分教えてもらった。

iPad持ち過ぎ問題②

「これ1枚でいつでもどこでもなんでもできる」

iPadのようなタブレットはそもそもそれが売りだ。


ところがその「1枚で済む」「いつでもどこでも」というのが

困ったことにますますメリハリを失わせる。

結果的に「いつでもできるから、今やらなくていい」

というようになってしまう。


自宅から近いお店ほど、

「いつでもいけるのだから今行かなくてもいい」

というのと同じだ。


というわけで、iPad一枚ごとに

入れるアプリが異なっていて、

電子書籍が入っている端末もあれば、

テレビアプリや動画アプリが入っているものもある。

ニュースアプリを主に使うための端末もある。


「この場所」に置いてあるiPad

アクセスできる「この時間」は、

「このアプリ」を使う、というように、

あえてちょっと不便にすることで、


意外にもちょっとしたルーティンが出来上がる。

iPad持ち過ぎ問題

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いま僕はiPadを5枚持っている。

何に使うから、という目的があってのことではない。

一部屋に1つ、iPadと言ったところで、

僕の住んでいるアパートには部屋は3つしかない。

頑張ってトイレを含めてみて4つ。

もうひとつ背伸びをして風呂場を入れてようやく5つだ。

トイレに行っても、風呂場に行っても、

「プライム・ビデオ」を見るわけではない。


それら5枚のiPadをテーブルに並べてみれば、

その画ははもはや「押収品」に近い。


普段外へ持ち出して使っているiPad Air2を除けば、

あとはiPad2(2011年モデル)が3枚、iPad4(2012年モデル)が1枚、

全て古いモデルだ。


新しいモデルはとにかく薄く、軽く、

ベゼル(縁)を細く、ディスプレイは大きく、

という方向性のところ


古いモデルの、ベゼルが太く

ディスプレイにドットが確認できるくらいの写りの荒さに

なんとも言えない素っ気なさを感じていて、

それがまた、気持ちを捉えて離さないのである。

お菓子と社会保障のはなし

僕の職場には、 数人の決まった面子の子供が遊びにやってくる。 オフィスにドタドタと入って来ては (まぁ、それ自体は許容しているのだけれども) 結構な頻度で「食べるものは?」「おやつちょうだい」 というところから話が始まる。

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シモジモの民の「しのぐ」術 と おカミのすべきこと という視点のはなし

●7月のハイライトとして、 非常に個人的なことを挙げると 『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』 という本を読んだことだ。

自称・読書家であるにもかかわらず 読み切るのに3週間も要したうえ、

ケインズ経済学の基礎知識が 頭に入っていなかったばかりに、 まだ完全には理解していない。

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「やらない善よりやる偽善」のはなし

「やらない善よりやる偽善」という言葉にさえ、 そこに自分を善人と信じて疑わない人の プロパガンダ的なものを感じてしまい、 僕はそれにたいして懐疑的だ。

大義名分に自分のこころが追いつかない人が ツイッタラーかもしくは 「世論」的なサムシングか何かに影響されて 「やらない善よりやる偽善」と 自らにあえて言い聞かせ、 「偽善」の手助けをしたのちに、

「(あのお金・労力は なんだか気持ちよく手放せなかったが) 人のためになるんだからいい(仕方ない)」と

認知をわざと書き換えるのは 実はからだが「NO」と言っていた結果である 証拠ではないか。 少なくとも、 からだが「GO」と言わなかった結果だ。

同じ「やらない善よりやる偽善」という言葉でも、

からだが「GO」と言った結果 考えなしに手助けをした、その結果 お節介だったとわかった、その結果 「善」にはならなかったから 結果だけ見れば独り善がりの 「偽善」になってしまったそのとき

それ以上自分を責めないための理屈 くらいにしとこうよ。

「正しさ」を帯びた、しかし 自分のこころが追いつかない「大義名分」に 怯え、揺さぶられる自分自身・他人に対して 投げる言葉としてでなく、だ。