リスペクト

   「自分の中にもある種の偏見や差別心がある」ーそれまでそんなことを考えたことはなかった。ただ、偏見や差別にまつわる記事を読んで、「そりゃ、そうだよな」「差別や偏見はよくない」と思うことはあってもだ。

   先日ふとしたきっかけで自分の口から女性に対する偏見を含んだ発言をしてしまった。それを指摘されたときに「そんなつもりではなかった」と弁明したい気持ちでいっぱいになったが、むしろ「そんなつもり」じゃなかったからこそ、つまり、それが無意識のレイヤーとして心の底に存在していた可能性を示したからこそ、問題だったとハッとした。それを「明らかにリスペクトを欠く発言だった」と反省した。

   そこから、「リスペクト」を改めて考えた。自分の中の「リスペクト」に「それぞれを、個々に見る」という意味を書き加えた。ちなみに、英単語の respect を辞書で調べると、最後の方にこっそり「点」「箇所」といった意味が記されている。さらに respect から派生した respective という単語は「それぞれの」「めいめいの」という  意味を持つ。respect とは「それぞれ」「個々」といった概念を含む。「リスペクト」の関連概念としての「尊敬」について、いわゆる「ソンケイ」の意味の他に僕はここ2年間で「“ノータッチ”性」のことだとずっと考えてきた。わざわざ「あなたのようになりたい」とか「見習うべき存在」と見なす必要はないが、「あなたはあなたのままで、僕は何も触れませんから」という態度をとることが「尊敬」になるんだ、と。そこに「リスペクト」の意味を加えてさらに厚みを持たせようとするならば、「それぞれを、個々に見る」ということが必要になってくる。

   しかし、そうやって前述の「尊敬」観に基づいて遠目から他人を眺めるような態度でずっといたのでは相手の情報が足りない。それぞれを、個々に見るための情報が足りない。それを積極的に得ていくためには僕は相手のことを知らなければならない。「なければならない」などと言っているが、僕は日々奥さんとは「〇〇(ヨメの名は。)はどんな寿司のネタが好き?」とか「〇〇はおにぎりの具では何が好き?」「〇〇は味噌汁の具では何が好き?」などと言った、一見オチも、面白みも、何もない質問を互いに繰り返しているのである。そして、そこから派生して、それぞれが自分のエピソードを語っているうちに、なんとなくお互いが知らなかった過去を知る。そのうちに、どんどん相手が自分の中で「個」に近づいていく。脈絡もなくこんな質問をポンと投げかけるのが、自分にできることで「ノリ」を拒否する自分にできる精いっぱいのことだ。

   「なぜ、差別や偏見が生じるのか」その内実と構造についてはこれからただ「批判の対象」としてではなく、「自分のこと」として考えを深めていく必要がある。年末に自分自身が犯したミスへのショックと、そこから考えたこと、少しだけアップデートした自分の「リスペクト」観で2020年を過ごそうと思う。

 

「違う」から始めましょう 忖度時代のインディヴィジュアリズム

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   仕事がいつなくなるかわからない不安からか日常生活においてもなお、「他人に認められなければ」と思うようになる。度重なる災害が起こるたび徒らに「やっぱり、きずな」とか「やっぱり、思いやり」と言ったことばが広まり、頭を埋め尽くすたびに、目の前の他人と自分との境界線が曖昧になる。「ひとのやさしさ」の名の下に他者の目を常に気にしているのだから、「負の協調性」が働き、その結果ある程度の治安や秩序を手に入れた。その代わりに相手の領域と自分の領域が曖昧になって、ますます他人と過ごすことが息苦しくなっていく。そんな時代にあって予想されるのが個の尊厳の喪失だ。そこで再確認すべき「自分と他人の領域の独立性」についての概念図を描いた。

 

  このイラストの示すところは以下のようなものだ。

 

前提①相手の領域と自分の領域がそれぞれに存在する

前提②それらは壁によって阻まれていて互いに踏み込むことができない(許されない)

前提③両者を分かつ壁は相手の上半身が見えるくらいに低く、一見、相手のことが見えているように思われる

前提④互いの足元にはそれぞれ、相手には見えないタマ(事情:自分をそうさせるもの)が転がっている

前提⑤自分の足元に転がっているタマ(事情)がどのようなものかはコミュニケーションによって伝えることができる。同様に相手の足元のタマ(事情:相手をそうさせるもの)は自分からは見えず、コミュニケーションによってしか知ることができない。

 

   このイメージを応用することで、不安を解消することができることもある。

   他人から何か嫌なことを言われた時(「言わせておけばいい」と言葉では言うが、それは簡単なものではなく「人生の永遠のテーマ」レベルで難しいことだと思う)、イメージから前提①と②を取り出して「相手が何と言おうとも、相手は相手の領域の中で好き勝手に喋っているだけ」「私とは違う領域で喋っているだけ」という考え方をすることができる。

   他人が自分を誤解していると感じたとき、イメージから前提④と⑤を取り出して、「自分にはこれこれこういう事情があって、こうしているのであって、あなたの解釈は誤解である」と伝えることことをサポートしてくれる(コミュニケーションで伝えても、相手は決して自分の足元に転がっているタマ(事情)を自分の目で確認することができないので、誤解は完全には解消されないかもしれない。その代わり、自分の領域に踏み込むことができないので、相手が自分の足元に転がっているタマ(事情)を取り上げて、「だったらこうすれば良い」などと安易なマウンティング助言して尊厳を奪うこともできない)。

   自分が他人からどう思われるかを気にして相手に尽くしすぎてしまう時も、前提④と⑤を取り出す。自分は壁の向こう側からしか相手に施しをすることができない。相手の足元にどんなタマ(事情)が転がっているかは、相手が洗いざらい話でもしない限り、知ることができない。何が相手のためになるかは、結局のところ、相手しか知らないのであって、して欲しいこと・しないで欲しいことは、最終的には相手の口から語られるしかない。

 

過去の記事も参照されたい。

「お式」と「マナー」

  結婚式とか葬式になると、次に出てくる言葉は大抵「マナー」である。それまで対してマナーも気にしてこなかったような人間が、なぜ突然「マナー」なのか。おそらくそれは結婚式と葬式には「喜びとか悲しみとか、単一の “感情カラー” がその場を支配して然るべきで、それに水を差すようなことがあってはならない(あえて水を差すような強い思いもない)」という前提が無意識のうちに働いている証拠だからではないだろうか。

  しかし改めて考えてみると結婚式や葬式においてそこにいる人が本当に単一の感情に染まっているかといえば、そんなことはないんじゃないだろうか。結婚式に参加しながらも、「あぁ、これでアイツのことを気軽に誘えなくなるな」とか「実は、ずっとあの人のことが好きだったんだけどな」といった一抹の寂しさを覚える人もいるはずだ。葬式にしても、喪失の悲しみはあれど、長い長い介護が終わったことや、故人の長い長い闘病生活が終わったことに対してちょっとした安堵の表情を浮かべる人もいるだろう。

   すこし話を広げると災害もそうかもしれない。災害の経験は本来はひとそれぞれ。同じ災害について、家族を失った人もいれば、家を失った人もいるし、一方で家や家族は無事だった人もいる。家や職場が失われたことでそれまで仕事仕事の毎日を送っていたような人が、改めて家庭や地域にも関わる人がいることを再確認するかもしれない。その人それぞれの経験について、文字通りそれぞれ異なるのに「大は小を兼ねる」的に「悲しみが皆の感情を支配していて然るべき」と無意識のうちに考え、「『マナー』があれば間違いない」と、自分で考えることを放棄してしまいがちだ(このことを話したら奥さんに「そこに感情の垣根を作った瞬間に自分ができる復興は閉ざされてしまう」と言われた)。

「いじめの機能」と「仕事レス社会」で「フリーライダー」とみなされないことの困難

  「従来の仕事」が少なくなっている・やらなくて済むようになっている「仕事レス社会」においては、他人にきちんと成果の出る仕事をしていることを示すのはますます難しくなっている。そうした難しさがあるにもかかわらず、(それを認めたうえで、本当に大事なこと・人間がすべきことは何かを考えずに)仕事(っぽいこと)をしていないことで自分を許すことができない・他人をゆるすことが出来ない人およびそうした考え方に出会してきた。そして僕はそうして環境を悪くしていることをやめるべきだと主張している。しかし「仕事をしているフリ」「暇そのものを許さない」という考え方にもある正当性があるのかもしれない。そこにある正当性を認めることで、新しい提案ができるヒントが見えるかもしれない。

  先日読んだ『ヒトは「いじめ」をやめられない』という本によると、人がいじめをやめられないのは、いじめがヒトの生存のうえで必要な機能だったことに由来するということらしい。 

  「他の動物のように突出した身体能力を持たないヒトは『集団』を作ることで生存してきた」「そして『集団』はその構成員がそれぞれ自らのリソースを出し合うことで成り立っている」「集団にとっての一番の脅威は『フリーライダー』である」「だから、集団の同質性から外れるような存在を排除し、集団を守るためにヒトはいじめをやめられないし、いじめる側にはそういう意味での正義がある」

そのような旨のことが書かれていたと思う(「フリーライダー」と「異質なものの排除」の間には論理の飛躍があるので要再確認)。

   ちょっと話がそれるが、僕は常々「従来の仕事が機械化された『仕事レス社会』において、それでもなお、自分にも他人にも暇を許すことが出来ず、働いているというそのポーズを示すために効率の悪い方法にかじりつき、勤労の精神について同調を求めるような態度は見直すべきだ」という主張をしている。そのために無職時代に直面した暇に向き合うことに始まり、「暇」についてと「働かざるもの食うべからず」のような勤労イデオロギーを薄めることについて、常々考えを巡らせている。

   上記の通りたとえ集団の存続という大義名分があっても「いじめ」という行動については、もはや擁護する余地はないだろう(というか現代のソレは「フリーライダーの排除」ですらないものが多い)。ところが大なり小なり人が集まれば、いじめに結びつくかどうかは別として「フリーライダーの排除」と「同調への圧力」というベクトルが働くことに一定の正当性があることは看過することができないようにも思う。それが、「仕事のための仕事」「仕事をしているポーズ」につながり、結果早く帰って早く休む、ということがしづらくなっている(割には結果が出ない)。

  そのうえで「仕事レス社会」における「役割の喪失問題」を考えると、目の前のあの人やこの人の考え(ポーズであれ「仕事をしているフリ」をせざるを得ない・自他に暇を許さない)の正当性とそれぞれの抱える事情に少しだけ近づくことができる。それを認めたうえで、うまく解消してやることが、悪びれることなくきちんと自分と他人を休ませることと、もはや従来の非効率的な手作業およびそこに込められる精神性にこだわることなく、新しく発生した「やるべきこと」に人を向かわせることにつながる鍵になる。

仕事レス社会における役割の喪失問題について

  世代交代が起こらない、仕事のための仕事をする、やらなくていい仕事で「くそ仕事」を生み出す、その他やってるフリにこだわる、自他に暇を許せない…そんなこと・人に嘆きつつも、時々「自分は現役世代だからほぼ無条件に『社会における役割があって/与えられて然るべきだ』という風潮にサポートされているに過ぎない」ということを思い出しては暗澹とした気持ちになることがある。寿命が伸びてもお金がなかったり、長い長い「老後」に生きがいが必要だったり、その他様々な理由で高齢者も働かなくてはならない「老後レス時代」において、社会における役割がなくなることは死活問題だ。自分はいわゆる「現役世代」であるという事実にサポートされているものの、我々は今している仕事を「しなくて済むように」働き、効率化を図っている。それに技術の発達も伴って、従来の仕事はどんどんなくなっていく。従来の仕事がなくなることで人間の手が掛からなくなることに起因する諸問題を僕は「役割の喪失問題」と勝手に名付けた。

  「役割の喪失問題」にはどのようなものが含まれているか。まずは自分の生に対する「誇り」が失われること。例えばかつては手作業でやってきた酒造りも、機械化が進んだことでそこに職人の経験とか勘がなくとも安定した質のお酒が作れるようになった。かつては手作業でやっていた事務作業、例えばデータのExcelへの手入力とか伝票の切り貼りとか宛名書きとか、「そこに人の精神があらわれる」と丁寧に誇りを持ってやってきたことも、だいたいもう20年以上前からPCでできることになった。今やむしろ人の手でやって方が非効率になることも増えてきた。

  もう一つは生活の糧が得られなくなること。仕事としての役割がなくなれば、「労働の対価としての賃金」という認識のもとでは労働者はお金を得られる理由がなくなってしまう。仕事がないのだから、残業する理由もない。賃金ベースが上がらなければ、残業代がなくなったことでほとんどの労働者は収入減に直結する(それを防ぐためには「労働の対価としての賃金」という考えを薄め、仕事の削減と同時に賃上げを行わなければならない)。

  残念ながら従来の仕事がなくなっていくことは避けられないと僕は思う。そのなかで一労働者としてできることがパッと浮かぶだけで3つある。⑴「やりがい」や「誇り」はもはや仕事だけに求められないので、仕事以外にやりがいや誇りを見出せるものを見つけること(そこで作り上げたものからは疎外されない)⑵新しい、名もなき仕事(「名もなき家事」のような、細かい作業の集合体)がもはやシステムの産物であり、それが立派な人間の仕事であると認識を改めること、そこに自分のやりがいを見出すこと。そして一番大事なのが⑶きちんと賃上げが政治に反映されるような投票をすること。

「『排除ムード』と『マイノリティの包摂』における個人主義的リーダーの役割について考えて高熱を出す」

  僕は長らく何かをするにあたって「そこに意志があること」を非常に大事にしていたという意識がある。「むやみに常識とかマナーとかで個人は縛られるべきでなく、そこに意志があれば、それに基づいて実際にやってみることが大事だ」と思ってきた。今だってきっとそうだ。しかし、「『マイノリティを社会に包摂する』ということを考えたとき、必ずしもそうではないのではないか」という疑問から、小さな壁にぶつかり、方針転換を迫られているような気がする。

  なぜそんなことを考え、方針転換を図る必要性を感じているのか。それはきっと僕の立場が変わり、いま曲がりなりにも、とある社会における「リーダー」の立場に(今までも何度もやってきて、何度も失敗してきている)あることに起因している。そして最近「あるコミュニティでの参加意志が表明されないことで、その構成員によってある個人が排除されるムードが生じている」事例に出会ったからだ。「参加意志のない人は出て行ってよし」という論理に基づく“排除ムード”は(たとえその当人に多数派が認める問題があったとしても)、そのまま見過ごすことができない、というか、「コミュニティ」とか謳っている以上、見過ごしていい訳がない。その事例に触れるなかで「自分は誰かを守れるだろうか?」という疑問が頭をよぎる。その度にそこはかとない焦りのようなものを感じる。その感覚を振り返るにつけて、僕はおそらく無意識のうちに理想のリーダーに求める資質のうち「誰か弱い立場の人を守れること」に重きを置いていることに気づく。

  これまで(大小に関わらず)ある社会での行動において「意志のある(と思い込んでいる)」自分の行動に対して、他の人の行動もまた、「異なる意志のある他の人の、異なる意志に基づく異なる行動」だと意識的に考えてきた。それに加えて昨今の溢れる情報の中で、自分と異なるものの感じ方(主に、悲観的な感じ方)に出会う。そうしてますます「自分は自分で、他人は他人」という思いを強める。多様性のコストだと思って、マナーと呼ばれるものに代表される「共通の規範」とか「常識」とか呼ばれるものからの逸脱行動については、結構意識的に許容レンジを大きめに取っている。それを「やさしさ」だと受け止めていただけるなら、それはそれで嬉しい。だがそこには「共通の規範に基づいて、目の前の他の人を『良い方』へ方向づけていく」という考えがあまりない。「なにが『良い』かは人それぞれで、自分は自分で、他人は他人で、それぞれ自分の意志に基づいた行動で、実際に痛い目を見ることで、行動を変えていけばいい」と言う具合にだ(その論理に則れば、「参加意志が表明されないということは、参加したいと思っていないのだから、参加しなくて良い」「そしてその後排除されようとも、それはその帰結である」ということになってしまう。それは大変ラクだが、結果的に個人の自由を尊重する反面で“排除ムード”の片棒を担ぐことになる)。目の前の人(もしくは自分)がそのコミュニティにおいて「良くない」方向へ行っていたとしても、それを止めることをサポートするだけのパターナリズム的考えが自分の中に存在しない。「誰かを守れるか?」という問いが頭をよぎるたび、なんとなく負い目を感じる。

  リーダーのような立場になければ、自分はただひたすら一個人として社会の、コミュニティの決まり事を疑い、その不必要な、もしくは過剰な部分について異議を申し立ていく「チャレンジャー」でいさえすればよかった。しかし、リーダーとして秩序を保つための決まりを作り、それに成員を(方法はどうあれ)「従わせる」ような…いわばその社会における「エスタブリッシュメント」側に回ることができるだけの「共通の規範」を、どこまで疑うことなく、所与のものとして受け入れられるだろうか。そうやって受け入れた「共通の規範」とか「常識」を(他の人には他の考え方がある、と強く思いながら!)盾に、どこまでマイノリティを守り、包摂できるだろうか?大した権限もないくせに考えすぎだろうか。また、頭を冷やして出直してこようと思う。

「今日は、あの人に会える」

 正直、心のどこかで「ドラマを観ることを楽しみにすること」を馬鹿にしていた時期があった。「どうせいつか終わってしまうのに」「流行り物だからだろう」「受け身の楽しみで…」など、これだけ並べるとまるで「懐古厨」のジイさんのようだ。そんなことを言いながら、今年の5月までテレビのない生活を送ってきた。

 ドラマをよく観ていて抱くようになったのは「この曜日になればこの人(俳優/キャラクター)に会える」という感覚だ。日々同じような人と過ごしているなかで、わざわざ出かけて誰かと会わなくても、曜日ごとに違ったキャラクターに会うことができる。その人に会う時間を、食後・入浴後、ゆっくり楽しむために「今日は早く帰ろう」と思う。残業しないための明確な理由がある。自分の時間はプライスレスだ。勤務時間中の時間の使い方が効率的になる。