社会

「多様性」について

「世の中には色んな人がいるからねぇ」と誰かがつぶやくとき、そこには大抵ネガティブな意味合いがある。「思いもよらない(“多様な”)発想から文句をつけてくる人がいる」(だから、それはやめておけ)という具合にだ。このネガティブさが、多様性の本質を…

誰でも取り残されうる

便利なオンラインサービスを使おう、と提案すると「じゃあ、それを使えない高齢者はどうなるんだ!(だから、それを使うのをやめろ)」となる。ただ、もしもそのオンラインサービスの普及率が8割9割くらいにまで達している場合、ましてそこに投入できるリソ…

世間に「傷ついた」人々のケアについて

承前 既に傷ついた人々 自分のしたことについて、《上司》《家族》《客》に頭ごなしに否定・却下され、非常に嫌な思いをした。かつその際に対抗原理(「あくまでも自分の主張は正しい」「相手の方が間違っている」と言えるだけのロジック)を持っていなかっ…

「世間」出身者もケアされないと先に進めない

「世間」はある種の宗教のようなものであり、生きていくための振る舞い方(のうちの一つ)を示してくれるものだと僕は思っている。ある特定の社会を超越するものとしての「世間」のルール(※1)にハマっている限り、突然知らない人の社会に放り込まれても、…

「順番にどうぞ」問題

突然だが僕は会議などで「順番にどうぞ」というスタイルで順繰りに喋っていくというやり方がくそ程に苦手であり、嫌いだ。僕はそのような会議のあり方がむしろ人々をコミュニケーションから遠ざける要因にもなってしまうことを指摘したい。 普段のコミュニケ…

ブルシット・ジョブは日本固有のものではない?

いま話題の本『ブルシット・ジョブ』を半分くらいまで読み進めた。まず驚いたのは、ブルシット・ジョブが日本に固有のものではないことだ。この本を読むまで僕はてっきり、いわゆるブルシット・ジョブ的な仕事は終身雇用と年功序列に代表される「日本型雇用…

資本主義社会下では、簡単に「世間の住人」になってもいけない

『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』という本を読んだ。この本を手に取った理由の一つは身近な人が根っからの「世間の住人」であることだ。「自分はこうしたい」という意見を持たず、「世間では」とか「周りが」とか「〇〇という人もいる」という理由でこと…

「そんなことで」と言い続けられる人だけが、「幸福な不自由」のなかに生きられる

「ルールは破るためにある」などと豪語しつつ過ごしたことはなかったが、「ルール」というものがあくまでも“マス”の自律性を否定し、自由を制限するためのものであり、ときにそれが責任を逃れるために設定されるものであることを考えると、自由を得るために…

「手加減の役割」にある不誠実さ

「仕事は無駄でも良いのかもしれない」という理屈を、とりあえず導いた。 しかし、「手加減の役割」を、「なにか役割がないと居づらいだろうから」もしくは「頼られるときっと嬉しいだろうから」などと勝手に慮り、“あてがう” という策をどうしても積極的に…

善意と反緊縮

緊縮財政に対抗するのは、現場の「善意」なのだろうか?という疑問から始めたい。 僕はいわゆる「ゆとり世代」かつ「デジタルネイティブ世代」だということもあり、どちらかというと「働き方改革」側に立っている。デジタルツールを使うことによって省ける手…

そんなことなら、神頼み

7月4日現在、僕の住んでいる岩手県では新型コロナウイルスの感染者が確認されていない。なんと、それにも関わらず接触感染アプリ「COCOA」のインストール率は全国トップなんだそうだ。 感染者がいないのが本当なら、それ自体は良いことだ。しかし僕は「感染…

善意がこわい

「一日に30分だけ!」という宣伝文句が付くものはたくさんある。ストレッチ・ヨガ・ウォーキング・読書・英語・筋トレ…どれも「やるに越したことはない」ことで、耐えず上昇することを迫られている人々の「やったほうがいいと思ってるんだけどね…」という思…

弱者のステレオタイプ

少し前の選挙の結果を見て、「あの身体障害者に何ができる!」と声を荒げていたジイさんがいた。僕は「どうか、そのような差別発言は辞めてほしい」と伝えた。そのうえで、「どうしてそのような差別心が芽生えたのか?」と尋ねると「定年退職後、警備員の仕…

がむしゃらさは 生活を守るもの なのかもしれない

ここ数年の僕にとって、がむしゃらな(実効性の薄い、ガンバっている風に見える)労働スタイルは「生活を壊すもの」だと考えてきた。それを生むようなムラ社会的考え方や・前時代的な勤労イデオロギーを心の中で非難し戦ってきたつもりでいる。しかし、最近…

やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間…

ムダの役割と余裕のない社会

ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。 ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつ…

余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4) この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。 「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa. 植松死刑囚は一…

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか

ボランティアの人々に動いてもらう際に、既にやることが済んでしまってやることがない(与えられない)と怒り始める人に時々出会す。僕は、怒りは「不安」、さらに噛み砕いて言うと、あらゆる「わからなさ」から来ていると考えている。だとすれば、手が空い…

虚の耐えられない軽さ 実の耐えられない重さ

先日職場で40人程度の「食堂」イベントを開催し、無事終了した。その後周りを見渡してみると、疲労感が見える。しかし、満足感や達成感のようなものも見える。安堵の表情も見える。自分としては常に「これでよかったのかなぁ」という気持ちに苛まれつつも、…

アウトサイダーとしてのエリート意識 について

『そして、暮らしは共同体になる』という本がセールになっていたので読んだ。新品で読んだのと、Kindleで読んだのに続いて3回目だ。その中に「丁寧なくらし」を志向するマインドに潜む「順応を拒否し、社会の外部にいて社会に適合しない」という立ち位置とし…

教えるのが難しい時代に

「(今は)先生よりもどうやら生徒の方が力関係が強くなってしまっている状況がある」「厳しく教えることが難しい時代に、じゃあ誰が教育するのかというと、最終的には自分で自分のことを教育しなければならない時代になってきたと思う」「それがすごく大切で…

『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のメモと考えたこと

「リベラル・デモクラシー」は自由主義(討論による統治、個人主義)と民主主義(同質性、何かしらのアイデンティティを共有)という「克服できない対立」を含んでいたにもかかわらず、生きながらえることができた。経済成長の時代には、多くの人がその分け…

「違う」から始めましょう 忖度時代のインディヴィジュアリズム

仕事がいつなくなるかわからない不安からか日常生活においてもなお、「他人に認められなければ」と思うようになる。度重なる災害が起こるたび徒らに「やっぱり、きずな」とか「やっぱり、思いやり」と言ったことばが広まり、頭を埋め尽くすたびに、目の前の…

「いじめの機能」と「仕事レス社会」で「フリーライダー」とみなされないことの困難

「従来の仕事」が少なくなっている・やらなくて済むようになっている「仕事レス社会」においては、他人にきちんと成果の出る仕事をしていることを示すのはますます難しくなっている。そうした難しさがあるにもかかわらず、(それを認めたうえで、本当に大事…

「社会人間」になるために

学生として学校と自宅を往復する生活を送っているうちは、 勤めをしながら職場と自宅を往復する生活を送っているうちは、 それが「プロレベル」かどうか考えることなく、 「純粋に得意なこと」、「純粋に好きなこと」で 学校や職場以外の社会と関わることを…