僕も、「不登校」みたいなもんです

「引きこもり」や「不登校」は、

「尊敬できる人がいない」というサインかもしれない。

(ここではその「良し悪し」には一切触れない。)


twitterを眺めていたら、

「引きこもりや不登校はむしろ自信の表れ」

みたいなのを見つけた気がする。

確かここのサイトにマンガがあったはず。

http://yucl.net/manga

誤解を恐れずに言うと、

「自分しか信じられない」ことの表れ、とか

「尊敬できる大人がいない」とか、

そんなことを考えれば、僕の無職時代も

ある意味で、(いや、立派な?)大人の「不登校だ。


昨日図書館に行って、「不登校」「引きこもり」という

テーマの本が並ぶ棚を眺めていた。

すると

不登校」「引きこもり」をさも「イケナイ事」のように

「我が子を“救い出す”」とか「社会復帰“させる”」とか

不登校にしない方法」とか、その類のタイトルが目立った。

ちょっと疑問に思ったのは、

「なんで親目線なの?」

ということ。

一番訴える気持ちを持っているのは

きっと「不登校」「引きこもり」の本人なのに。

その時点で、「尊敬されていない」とか、

親のエゴでただただ

社会復帰「させられ」ようとしている。

そんな欺瞞を察知したひとたちは、

ますます周りを尊敬できなくなるんじゃないか。


こういうのは方法論で語られるべきことではない

と思うのだけれども、

せめて、できることとすれば、

「本人の気が済むまで、そのまま」

というスタンスを保つことなんじゃないか。

いや、働きかけはできると思うんだけど、

それに対してあまり「手応え」を求めず、

「まぁあんたがそうならしゃーないわ」

「好きにおやり」

「でもワタシは何があってもアンタの味方やからね」

くらいにとどめて、ゆっくり向き合っていくくらいが

ちょうどいいんじゃないか。

退屈したら、どこかに出てくればいいだけのこと。

もしそれで上手くいかないことが出てくるとすれば、

その結果を最終的に引き受けるのは本人であって

親ではない。上手くいかない分について、

自分でちょうどいいようにツマミを調整すればいい。


ただ、不登校や引きこもりと言った

「行動」に出られるだけ、

彼らの心は尊敬できない人たちとの摩耗から

多少なりとも解放されているのかなとも思う。

実際には、おそらく

「『行動』なき、摩耗の中にいる」人たち

というのも大多数である、という背景がある。

つまり、「不登校」「引きこもり」は

日本社会が抱える「社会と心の問題」の

氷山の一角にすぎない、ということ。


 

自分で言うのもあれだけれども、

思うに、僕が親の世代よりもずっと

いろんなことを考えてきたし、

それと同じように

僕より下の世代の人たちは、

僕よりもずっといろんなことを、

もっとちっちゃいころから考えてきている。

考えざるを得ない状況にあると思う。

たぶん、僕がおっさんになるころには、

彼らは今の僕よりもよっぽど賢くなっている。

子どもだから、という理由で

「教育されるべき存在」と見なすようでは、

いくら大人であっても尊敬されないだろう。


アイドルグループの「乃木坂46」の中心メンバーの

白石麻衣さんも、

ドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方』で、

自身の不登校時代について明かしていた。

一般的な「不登校」のイメージからは、

はつらつな彼女がそういう過去を持っていたことを

想像しにくいだろう。

僕は映像を通して毎日のように

彼女を見ているから(???)、

より身近なこととして感じられたのだ。