「情けは人の為ならず」-貧乏人がチップを渡す話-

日本には、チップという習慣がない。

それがダメだと指摘するつもりはない。

それどころか、

僕は実際にチップが面倒だと思ったことがある。

チップが暗黙の了解として存在する国へ行けば、

何かに感動したから、とか、そんなことはさておき

「チップを渡すのが暗黙のルールだから」

ということによって、問いが

「チップを渡すか否か」ではなく、

「それじゃ、いくら渡すのか?」

というところから始まってしまうからだ。

チップを渡すことが自発性に任されていないと、

全く面白くないわけだ。


今朝、

借りている実家の車にガソリンを入れる際、

スタンドの店員さんが、

「窓をお拭きしますか?」

と尋ねてくれた。

反射的に「お願いします」と言ったわけだが、

それと同時に

「このオプション(窓を拭くか否か)は

タダなんだな」

と思ってしまった。

そりゃまぁ人件費・サービス費は

ガソリン代に転嫁されてるかもしれないけど、

そんなのが給料に反映されているなんてのは

本人には全くわからない。

それでもなお、

素早く丁寧に窓を拭いてくれた店員さんに、

寒いところ外に立ち続けている店員さんに対して、

貧乏人の僕ですら、

「良かったらこれで温かい飲み物でも」と

飲み物代程度のチップを渡すことに

まったくやぶさかでない。

(買った野菜が、あとで訪れた他の店で

数十円安く売られていたら、

悔しい思いをするのに、だ。笑)

その結果、

(チップを渡した後だからきっとそう)

注油口の不具合を発見したことを、

その状況とともに丁寧に伝えてくれた。

ちょうど車の点検時期が迫っていたところ、

いいことを教えてもらった。


引越しにあたり、ギターを発送する際のこと。

来てくれたヤマトのお兄さんに、

「寒いところありがとうございます」

「よかったらこれで飲み物でも」と

その時もまた少額ではあるけれども

チップを渡した。

それに加えて、

「(田舎者が日々お世話になっている

Amazon便で忙しいだろうし、

そもそも、ギターは急ぎでないから)

これ、まっったく急ぎませんからね、

どうか、安全に届けてください」

そう伝えたら、

「オッケーっす!」と元気よく

ギター達を持って行ってくれた。

後日、ギターが無事に届いた。

当たり前、と思うだろうか。


ところで僕は、

「チップを渡すことで、いいことをした」

などとは思っていない。

渡された側が

「こんな少額ならくれない方がマシ」

「マジ、舐めてんのか」

と思うかもしれない。

ただ、

「いいことをしたかもな?」

と勝手に思っているだけである。


「情けは人の為ならず」

(=他人に親切をすると

自分にもいいことが訪れる)

ということわざがあるが、

僕は自分なりにその理由が説明できる。

「いいことをしたかもな?」

という気持ち(他者貢献「感」)によって

アドラー心理学で言うところの

「共同体感覚」

(生きとし生けるものすべてを

「共同体」のメンバーとみなした時、

自分は、その「共同体」で

「生きてていいんだ!」と思う感覚、ひいては、

「自分は生きてていいんだ!」

と認められる感覚のこと。

道路の側溝の網に引っかかっているオニヤンマを

助けてやることですら、

その感覚を得ることができる。笑)

に身を包まれる。

「自分は、生きてていい」

短い間でも、そう自分の心から認められたとき、

自分の視界がたちまち明るくなる。

(論理の飛躍か!?笑)

すると、視界に入る些細なことが、

ありがたいと思える。

つまり、

本当に「いいこと」が起こると言うよりも、

「いいこと」を感知するセンサーの感度が高まる

そういうわけで、

「情けは人の為ならず」。