(たぶん)カルト宗教の勧誘に遭った話

学生時代の話。

僕は(おそらく)カルト宗教の勧誘に

2回遭ったことがある。

・・・と思ったが、実は3回ある。

学生食堂で2回、文化祭で1回。

勧誘に遭っただけで、

実際の会合には足を運んでいないから、

「たぶん」とか「おそらく」にしてある。

「怪しいな?」と思って調べたら、

手口がそれのそれだったのだ。

まじめそう(ファッション・髪の色など)で、

内気そうで、大学のキャンパスを

単独でうろついている学生は要注意。

(そう書いてあった。)

宗教の勧誘だと思われたら意味がないから、

(そもそも、彼らは本当に

「善意で近づいている」

と思っているのかもしれない)

なんかよくわからない就活セミナーとか

(とくに今の時期)

球技サークルとか、

そういう名目で誘ってくるのだけれども、

「なんとかして外に連れ出そうとする」

みたいな感じだったらなおさら注意せねばなるまい。


ここまではただの

「カルト宗教勧誘注意文」でしかない。

ただ、一部にそういう「悪いこと」をする人たち

(いや、厳密には

多分彼らの中では本気で「善意」

でやっていることが、結果的に

「社会的に」悪い結果になってしまうような

ことをやっている人たち、その他、

街角で知らない人に声をかけて、

誰かを酷い目に合わせる人たち)

がいるのも事実である。

そのおかげか、

「知らない人は、悪い人と思え」

という防衛意識が働くのは当然のこと。

知らない人に「取り込まれる」

可能性があるのなら、

「つながる」ことよりも外から「買ってきて」、

あえてお金でつながりを切ってしまった方が

(その場限りの貨幣⇆モノのやりとりにした方が)

安全だ、という考えについても、

「その通り」としか言いようがない。

自分のリソースを「善意で」オープンにすることが

さも「トラップを仕掛けている」かのように

とらえられてしまうのは、残念だが、

これまた「さもありなむ」。


ところで、マルクスの『資本論』では

プロレタリアート(労働者階級:賃労働者)が

資本主義のその性質

(「資本家は、生き残りのためには絶えず生産力を

増大させなければならない」

「生産力が増大するほど、労働力の価値が下がる」

「生産力が増大するほど、賃労働者の従属が強まる」

など)と、

物象化(モノとお金が人の行動を支配すること)を

乗り越えて、生活の主体性を取り戻すには、

「アソーシエイト」が不可欠だ、

と書かれているらしい。

佐々木隆治『カール・マルクス』に

詳しい記述あり。)

その「アソーシエイト」というやつを、

よく聞く言葉にまで噛み砕くと

「シェアリング・エコノミー」のようなもの。

(ときには、そこに金銭のやりとりが

存在しないものを含む。

これは、近所付き合いなど、自分で選べず、

かつその場にいるかぎりは逃れられないもの

としての「コミュニティ」とはまた別のもの)。

その「アソーシエイト」が

モノ・カネに支配されない人間らしい生活や、

暮らしにおける人間としての手応えを得るのに有効だ、

というのだから、

現代人が抱えているいくつかのやりづらさの

ブレイクスルーになるかもしれない。

ただそれを、

(ある程度の打算を含むにしても)

「善意で」近づき、「仲間になろうよ」というのは、

上記の警戒されるパターンそのものではないか。

残念ながら、

「同じ場所に向かう電車に乗っている

見知らぬ人と

密着したりすし詰めになったりする不快を

受け入れることはできても、

車で『ついでに乗せて行ってあげるよ』

という人がいて、

たとえそっちの方が快適・ラクであったとしても

信用してはいけない」

というのが現状だ。

そして、ぼくはまた、途方に暮れるのである。