結婚ロマン主義社会のユウウツ

「結婚」それ自体は、一応は

法的に認められたカップルになる

ということだ。

しかし、実際のところはもうその言葉の中に

「子育て」「扶養」というニュアンスまでもが

内包されていて、おそらく

未婚者の間の高いハードルは

「結婚」と強く結び付けて考えられる

「子育て」「扶養」にこそ、

あるんじゃなかろうか?

というのが今回のテーマだ。


「ひとり口は食えぬがふたり口は食える」

という言葉がある。これは

「単身では生活費に無駄が多くて

食べていくのに苦労するが、

夫婦で生計を立てるようになれば

経済的で楽に生活できる」

ということを示したもの。

この言葉に則って考えれば、

低コストでありながらしかし「暮らし」の中に

確かな手ごたえを感じ、味わう生活を目論む

プータローやフリーター系の人間、

もしくは、精神的肉体的拘束を嫌う人間こそ、

とっとと結婚しちまった方が、戦術的には「マル」と言える。

それでも、僕は度々

「結婚なんてまだまだ・・・」

「今の自分と結婚するなんて、(相手が)危険すぎる」

という類の言葉を口走ってしまうことがある。

戦術的にはイケてるはずの「結婚」を、

まだ「自分ごと」と思えない(思うことができない)のは

やはり心のどこかで

「自分は男なのだから、稼ぎ頭にならないといけない」

「稼ぎ頭になって、安心して子どもを育てられるような

環境を作ることに対して責任を負わなければならない」

という義務感と「結婚」を結びつけているからだろう。


ところで、今日からちょうど2週間前の3月8日の

「国際女性デー」で女優のアン・ハサウェイ

国連で行ったスピーチについての記事を見つけた。

「女性を真に開放するには、男性を開放しなければならない」

http://logmi.jp/193788

この記事の中でも重要な部分を要約すると、こう。

アメリカ人女性は、マザーフッド・ペナルティ (妊娠・出産に伴って女性のキャリアが 制度上不利になること)のために、 女性はキャリアか子育てかの選択に迫られ、 両取りは不可能。 その背景にある、「男性が稼ぎ頭として 子育てよりも仕事を優先しなければならない」 「男性が子守りをするのは恥ずかしい」という風潮も 男性の育児参加と女性のキャリアを阻害している。 女性を開放し、男女平等と女性のエンパワーメントを 目指すならば、まず男性をおのれの 「『稼ぎ頭』信仰」と「『育児コミット=恥』信仰」から 開放しなければならない。

つまり彼女によると、アメリカ人男性ですら、

「子育て<仕事」「稼ぎ頭であらねば」

という風潮の中にあるというのだ。

「子ども」というテーマが絡むと、

「結婚」というものが

「法的に認められたカップルであること」に留まらず、

こじれてくるわけである。


さらに、もう一つ記事を紹介したい。

「女の子を拘束する『呪い』、親が解かねば」

http://www.asahi.com/articles/ASK2R02Y8K2QULBJ01H.html

これもまた、「国際女性デ―」に向けてのもの。

この記事では、

女性に対するバイアスのことを「呪い」と称し、

その中でもとりわけ、

「女性は『守られるべき』存在である」

「女性は、補助的な存在である」

というバイアスについて、興味深い記述がある。

ジェンダーの壁を乗り越える描写を前面に出した 海外のメディアの水準から立ち遅れた 日本のメディアでしばしば強調される 性別役割のイメージおよび女子力のような言葉が 私たちを縛っている。こうした中で育った女の子は 小さな時から結婚や出産という期待を背負い、 子どもが生まれたら仕事を辞めて 夫の長時間労働を支えるなど、人生の節目節目で 女性だからと言って常に補助的な役割を求められ、 なおかつ、本人の中でも「自分はそうあるべき」と 内面化すらされている。自ら「呪い」を自分にも かけてもいるわけです。

この記事は、

これら「女性の役割」バイアス

(とりわけ、結婚・出産・子育て)にまつわる

「呪い」の言葉には耳を貸してはいけないし、

ましてや親が「呪い」をかけることはあってはならない

というようにまとめられている。

ただ、実際のところはどうだろうか?

「私ねー、一生結婚できないと思うの」

「私って、結婚向いていないわー」

とこぼす女子学生ですら、いつの間に

「でも、いつかは結婚して、子どもも~」

という方向に話が進んでいるくらいだ。

積極的な(自己決定に基づく)判断でもって

「一生結婚もしないし子どもも産まない」

ということを既に、口先だけでなく

それに対する(世間一般論的な)未練を

一切排除して考えている女性は、

どれだけいるだろうか?

おそらく、ほとんどいないはずだ。

僕たちは、親世代ほど

経済的・社会的に恵まれていない世代と言われている。

(それは本当かどうか、実際のところは不明だが)

親と自分は違うから、違う価値を見つけてやる

――そんな風に親世代に反抗する態度を見せながらも

おのれの出自を鑑みたとき、自分もまた

「子ども」として「子育て」された身である

という事実は強烈に印象付けられ、

しかし決して覆ることはなく、

知らず知らずのうちに、

「親の信じてきたルール

・親の歩んできたレールから外れることなく

自分がまさにそうしてもらったように、

結婚から出産、子育てを、

自分の性別に応じた(もはやバイアスの)役割を

きちんと果たしながら、つつがなく生をつなぐ」

という非常にハイレベルなことを基準化して

自らに「呪い」をかけてはいないだろうか?

男女関係なく、だ。

こうした「呪い」から自らを開放しない限りは、

「結婚」というものへのハードルは高まるばかりだ。


もしも、「結婚」と

「(女性の)退職」「子育て」「扶養」

これらの要素を一緒くたにして考えるならば、

「結婚」はたちまち

「ひとり口・ふたり口」に表現される

「共同」の意味合いを失い、

「したほうがいいからする」ものでもなく、

「純粋にしたいからする」ものでもない、

「扶養」の意味合いに強く基づいた

「(経済的に)できるようになったらする」ものと化す。

「結婚」が「契約」の側面を持つことを考えれば、

それも仕方ないことなのかもしれない。

しかしそこにある

年齢的に、経済力的に、世間的に・・・

「そろそろ」と

あくまでも時期に後押しされる消極性が否めないのが、

結婚ロマン主義社会に生きる我々にとっては

何とも皮肉なもの。


追記:

逆に言えば、「そろそろ」があればこそ、

婚姻届を出すに至るのだ。

「これくらいの歳で結婚したら勝ちor負け」

「交際が始まったからには結婚しなければ」

などという競争や義務感は、他人目線でしかない。

「これくらいのステータス(歳、カネ、環境...etc)の

自分が(←これが大事。抽象化された属性だけでは

他人にはトレース不可能)

結婚したらどうなるのだろう?」

という壮大な実験に乗り出す純粋なきっかけを

双方の真の本意に基づく合意から生まれた「そろそろ」

が与えてくれるなら、

それはまさしく「良縁」と呼べるかもしれない。

結婚したひとたち、おめでとう。

結婚していないひとも、おめでとう。