かくして「家庭を顧みない人間」は生まれるー初夏の「雪かき」のはなし

今月の頭ころのことだ。

「あぁ、こうやって家庭を顧みない人間は生まれるんだな」

という感覚が舞い降りてきた。

それはどういうことか?一言で言えば、

「『目の前の人間的エキサイトメント』に、

何の悪気もなく、没頭し、楽しんでいるだけ」

ということだ。

あくまでも悪気がないからこそ、厄介なのだ。


【「プロデュース」と 「目の前の人間的エキサイトメント」】

新しい生活を初めて2週間くらい経った頃から、

僕は何となく

役割を果たし(はじめ)ている充実感

求められている(気がする)喜び

のようなものを感じ始めていた。

そこから今日までの一ヶ月間は、

一人きりになって本を読み、文章を書く、

というような休日を過ごさずに来てしまった

(かつてはそれが日常だったくせにね!!)。

数週間後に控えたバンド演奏のために

ギターの自主練習をしてから帰路についたり、

その他いわば「オン」の部分の人との関わりについて

あれこれ考えたり、実際に会ったりしたことで

一緒に住んでいる母との会話も少なくなり、

遠くに残してきた彼女との連絡も減った。

夕食をとってからシャワーを浴びる気力もなく、

気づけばワックスをつけたままのアタマで、

寝落ちしていた、ということもしばしば。

しかし、僕はそれを純粋に楽しんでもいた。

「そんな感覚で時間の『残業代』をもらう人たちは、

きっとウハウハな気持ちでいるに違いない」

「ハーン、なるほど、

一部の『残業ラヴァー』たちはこうして生まれるのか」

と思った。それと同時に「ヤバい」とも思った。

これは結構「(『危ない』と言う意味で)ヤバい」楽しみなのだ。

かくして生まれる

「プラスを生み出す」(主観的)意識と「ウハウハ」な気持ち

それらを合わせたものを

「目の前の人間的エキサイトメント」

と表現することにする。


【「メンテナンス」と「雪かき仕事」】

ちょっと話は逸れるが、

「やったところで特に感謝もされないが、

誰もやらなければ困ったことになる」

という類の仕事のことを、

内田樹氏はしばしば「雪かき仕事」と表現している。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』という本で

「誰にも見向きもされないけれども、

雑誌を出すのに必要な文章を丁寧に書くこと」を

「文化的雪かき」と呼んだことから、だそうだ。)

冒頭の「顧みるべき家庭」に示される

「心や肉体が、帰ってくる場所・休む場所」

としての「ホーム」は、どちらかといえば、

「『プロデュース』する場」というよりは

「『メンテナンス』が必要な場」

(「牧歌的な暮らし」に想いを馳せるならば、

両者を限りなく近づけるのが理想だが)。

この場合、

「顧みるべき家庭=ホーム」は

「ホーム」になってしまった瞬間に

「メンテナンス≒雪かき仕事」の性質を帯びてしまう

という宿命を背負うことになる。

その逆も然りで、

「メンテナンス≒雪かき仕事」だからこそ、

「ホーム」になることができる。

「ホーム」に帰ってきてもなお、

「もっと騒いで楽しもうよ!」とか

「いつも仲良くやろうよ!」とか、

そんなのでは心身が休まるはずがない。


【「雪かきか?雪像づくりか?」】

前途洋洋(思い込み含め)な青年を前に、

「お前は雪かきをしたいのか?!それとも、

雪まつりに向けて雪像を造りたいのかッ?!」

と尋ねれば、おそらく多くが

「オレ、みんなの記憶に残る雪像造るッス!!」

と答え、意気揚々と雪像造りに励み、

あれこれ工夫をするのが好きな人ほど、

それこそ、寝ても覚めても

理想の雪像のことを考えていることだろう。

その感覚は確かにこの世の中に存在し、

そこから生まれるものは、確かに世の中をつくる。

そんな考え自体は(その良し悪しはさておき)、

多くの人にその存在を認めてもらえるはず。


【「メンテナンス」は明確な提案を】

ただ、きちんと雪かきがなされていないと、

そもそも雪像をつくることができない。

きちんと雪かきがなされていないと、

完成品を見に来てもらうこともできない。

つまり

「プロデュース」に付随する

「目の前の人間的エキサイトメント」は

「メンテナンス」としての「雪かき仕事」

なくしては成立しない

という

「タマを握られている」レベルの弱み

を持っている。

もちろん、

「プロデュース」がプラスをもたらすからこそ、

「メンテナンス」の必要性が出てくるのだから、

これらの仕事の性質そのものには優劣がなく、

本当は「持ちつ持たれつ」なのだ。

ただ、

時間占有率および時間に対する優先順位において

「プロデュース」が優位になりがちであることを考えれば

それぞれが「メンテナンス」についてできることに対する

僕の提案はこうだ。

「ホーム」に対して、

いつ」「どこで」「何をする」という約束

を明確に示すこと。そして、

その約束の優先順位を最上位に持ってくること。

さらに言えば、

それらが「月例」といった名目の下で

惰性やマンネリズムに陥らないために、

きちんと自身の希望:「~してみたい」に基づいた

提案をすること。

そのためには、

自分のアンテナでキャッチした

「~してみたい」をストックしておき、

(「新鮮さ」のニュアンスを込めて「~したい」と区別している)

それを「ホーム」に随時、提案していく必要がある。

「時間ができたら、~しよう」と言う場合、

それはほぼ100パーセント達成されないし、

気持ちの優先順位の低さを表すのと同義だ。

そうなる気持ちは理解できても、まことに失礼である。


【おわりに】

いつもいつも

大がかりな「メンテナンス」をする必要はないのだが、

(それはもはやメンテナンスではないな)

ちょっと違う時間を設けて

目の前の喜んだ顔や、

トイレの鏡に映る自分の安心したマヌケ顔を見て

「ホームも、いいね」

と思えたなら、

きっときちんと「雪かき」された道を

快適に歩くことができるんでは!!

(ハ―!上手いこと言ったドヤァ!みたいな!?)

じゃ、日々の「メンテナンス」はなんだろう。

そりゃ、特別なことは要らないけど、

「いつも、ありがとうね」の言葉だろうよ。

月並みだけどね。