「わるい人センサー」のはなし
ぼくにとって
小学校や中学校などの公的な教育機関を訪ねるのは、 会ったことのない大人を訪ねるよりも非常に気を遣う。
「生徒は、学校によって固く守られなければいけない」
「学校関係者以外との接触は、 (塾などを除き)基本的にはご法度である」
という思い込みが、ぼくの中に強く存在するからだ。
それはやはり、ぼく自身が 疑問を持つという能力のないうちに 「しらない人は、基本的にわるい人」 という言葉を、疑問の余地も与えられずに 刷り込まれてきたからだろう。
(これに対して今思うのは、
「わるいことをする『一部の』大人が悪いし、 さらに言えば、大人に悪いことをさせる社会にも 悪いところがある」
ということだ。)
この間、近所の中学生と一緒に出かけた際、 その中学生の知り合いと出先で出会った。
その時にぼくに向けられた 訝しげな顔、ハの字になった眉毛の間にシワが寄った顔を、 ぼくははっきりと覚えている。
「やっぱり、中学生は 『然るべき教育者』によって『守られるべき』存在なんだナァ」
ちょっとションボリだ。
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高校までの教育課程を終えて初めて、 ぼく達は知らない人たちに溢れた 「オープンな場所」に放たれる。
(「しらない人は、わるい人」という刷り込みに加え、
連日報道される首都圏での事件・事故を、 毎日のようにテレビで目の当たりにしていたぼくは、
「(進学で)東京に行ったら 無事では帰ってこれないのかな」と
3割くらいは真面目に考えていた。)
突然、「オープンな場所」に放たれて、 しかも周りの連中も我先に「大学デビュー」を果たそうと 誰彼構わずメールアドレスと電話番号を交換している状況だから、
かつてビンビンだった「『わるい人』センサー」の感度は、当然落ちる。
(だから、友達も増えるし、行動範囲も広くなるんだ)
当然、その感度が低ければある程度危険にも晒される。
黒髪で、地味なファッションで、単独行動を好むぼくは アヤシイ宗教系の勧誘の恰好のターゲットなのだ。
当時の彼女に止められなければ、ぼくはきっと 「就活」名目のセミナーや「フットサル」名目の合宿に参加していた。
「しらない人は、わるい人」の反動で オープンになりすぎるとこうなる。
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時代の趨勢としては 「何かあったら困るから」だ。
誰もが簡単に匿名で「正義」を振り回し、 何かあればすぐに「炎上」する世の中では仕方がない。
ただ、守ってくれる家庭や学校がすぐそばにあるうちこそ 「わるい人センサー」を磨きながら 少しずつ、学校以外の社会に慣らすことも できるかもしれない
そのためには? 「自分で疑う」という、 教育者には「不都合」にもなりうる部分を 認める必要があるのかもしれないネ。