おカネとフィクション性のはなし

ここ数ヶ月の間、 「お金はフィクションである」 という考えがぐるぐると頭を巡っている。

多分、ゲームの世界の中の課金を見たからだ。 あれは、フィクションの中のフィクションだ。

ライフスタイルにまつわる 「丁寧さ」とか「オーガニック」だとか 「手づくり神話」とか「感動づくり」とか、 (信者はいるとしても)

そういった、 モノの使用価値をこえたところの、 人々の精神的な部分に 土足で踏み込む感じのビジネスが、 なんだか高い付加価値を背負って、流行っているのをみたからだ。

もともとはただ、 手作業でやらざるを得なかったものだ。 人体に有害とされる農薬も、なかったはずだ。 感動は、ふとした瞬間に勝手に起こるのだから、 放っておいてほしい。これも、フィクションだ。

(でも、巨大な設備を持たない人間が、 いま、飽和の世の中で付加的に生み出せる価値といえば、 「こころ」だったり「臨在感(その場にいること)」だったり、 なんだけれども、それをビジネス化するかなしさ。 あとは、社会的政治的な問題。)

営業も広告も基本的にはフィクションで、 需要がたとえ潜在的でも潜在しているうちは、 「なくてもまぁなんとかなっている」 証拠だったのが、そいつらも掘り起こされて フィクション市場に引っ張り出される。

貯金も、内部留保も、フィクションだ。 でも、それらに伴うセーフティーネットの感覚が リスクを取って行動する心の拠り所になるならば、 それらは、グッドなフィクションだ。

だけど、マクロな視点からすれば そんな自己責任論的な考えは、 ベリーバッドなフィクションだ。

誤解しないでいただきたいのは、 ぼくは「おカネがキタナい」と思っているわけでもなければ、 無償労働を美徳だと思っているのでもないし、 お金を稼ぐための手段を否定しているのではない。 現に、ぼくもそれなりにおカネの恩恵を被っている。

「ただそれはフィクションだ」 ということを踏まえて、 そして、その付き合い方を考えている。

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ここで説明したいと思っている 「フィクション」の感覚を一言で表すと、

「自分の生命生活の維持に直接関係ない」ということ。

そりゃそうだ、 おカネには「交換価値」があっても「使用価値」がない。 燃やすにしても、その辺に落ちている木の枝の方が、 もうちょっとマシな燃え方をするね。

こんなジョークはどの本にも書かれている。 ちっともおもしろくない。

おカネがフィクションなのだから、 おカネを生むための仕事も、 その仕事の中で演じられる人間関係「ドラマ」の役割も、 もちろん、フィクションだ。

さらに言えば、 (いつか)おカネを生む人を育てる事に繋げよう、 的な願いを込められて 「役に立つ教育」みたいなのが繰り広げられる、 「不自然発生的」に集められたメンバーからなる「学校」というのも、 さらにそこから集まった連中からなるブカツも、フィクションだ。

あくまでフィクションは フィクションなのであって フィクションなのだから、 フィクションに殉じることがあれば、 そいつは、きっと名役者だ。

冷静に言えば、 「フィクション」というものそのものにはきっと、 殉じるほどの価値がなければ、 心身の健康を損ねるほどの価値もない。

…ないのだけれども、残念ながら暮らしの ほとんどはフィクションに占められていて、 フィクションありきで世の中が回っている。ゆえに

フィクションとして「与えられる」役割がなければ、 自分の存在意義(みたいなもの)をたちどころに失ってしまう

みたいな感覚が確かに世の中にはあって、 そいつがずっと僕たちの影を踏みつづけていて、

フィクション中心の世界観から逃げるのは、 理屈で言うほど容易ではない。

ただ、それでも言えるのは ぼくたちはフィクションではない世界も たしかに持っている、ということだ。

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話はちょっと戻って。

「おカネはフィクションだ」 そんなことを言うと、

「おカネがなければ生活していけないじゃないか?!」 という声が聞こえて来そうだけれども、

厳密には「『いまのような生活』はしていけなくなる」だ。 「『いまのような』楽しみ」と 「『いまのような』安らぎ」。 それらを引き立てる 「『いまのような』心地よい痛み」。

それらを捨てた瞬間に、生命は絶たれない。 ただきっと、面倒な手続きに追われる。 これもまた、フィクションだ。

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知っての通り、 フィクションはあくまでも人々を楽しませるためにある。

おカネは人々を楽しませるためにあっても、 人々を苦しめるために存在するのではない。

まだフィクションに生きることができるうちは、 そしてそれをフィクションだと認められる余裕があれば、 幸せだ。

だから、フィクションと自らの生命生活の見分けがつくうちに、 自分の生命生活を、 たしかに自分のもの、ソリッドなものとして、 その手綱を握っておきたい。