スマホと「ひま」のはなし

「暇さえあればスマホをいじる」という言葉には、 もう既にネガティブな意味が内包されている感じがある。 けれども、「スマホ」っていうのは人々の気持ちに不安を与える 「暇」というやつの、まさにスマートな行き先であり、 その「暇」を「よくないもの」とか「直ちに、労働に変換すべきもの」 という教育観のもと、自分を責めないための 絶好のエクスキューズだ。

便利で、手軽で、(ときどき)面白すぎるツールに対して その「スマホばかり」といったネガティブ発言は おそらく彼らの行動においてほとんど影響をもたらさないだろう。

でもそもそもなんでそうなったのか? なんで、「暇さえあれば、無意識的にスマホ」なのか? ということを考えた時に、皮肉にもそれは

「暇であってはいけない」 「暇さえあれば〇〇しなさい」

という教育の立派な成果なんじゃないだろうか。

スマホを見る暇があるから…」じゃない。

「暇なんだけど、何かやることを 見つけなくちゃいけないときに、 スマホは常に情報を収集できる格好のツールだ」

スマホを使うことで、おれは暇じゃなくなる」 「スマホでの情報収集、伝達という『仕事』をしている」

というほうが適切だろう。

もしも、「暇」というものを 「労働(およびその準備としての勉強)」に充てることなく、 「暇」のまま、ただその「暇」の中に自分を置くことが許されるならば、 そしてそういう心の余裕が自分と他人を許す環境があるならば、 人々の「暇」に対する行動は、また違うものになるかもしれない。

まぁ、個々人が困らない限りは、今のままでもいいんだけどサァ