「予定が入らなかったらね」のはなし

「来月の〇日、空いてる? ちょっと□□行こうよ」 という質問に対して、

「予定が入らなかったらね」 と答えられたときは、ちょっと困る。

その返事からは 「悪いな、ボクには『予定が入る予定』があるんだ」 というメッセージをなんとなく受け取ってしまい、

しかもそれは

「悪いが、後日入る予定によって キミとの先約は容易に覆る可能性があるんだ」

という可能性を暗に示すことになるからだ。

平たく言えば 「“けっこう”失礼な行為」なんだけれども、

「勝手にそっちがザワついているだけだろう」 と言われれば、それは、その通りでもある。

これを、「約束を守れ」 と言って矯正(強制)することは簡単だけれども、 ぼくはそこに一つの「ムーブメント」を見出してもいる。

一般的に、約束そのものが 体調不良、その他不慮の事態によって キャンセルになることは、そんなに珍しくない。

けれども、「予定が入らなかったら」には そもそも、「約束の意志」がない。 そう、「明日の約束の意志」なんてものはない。

「明日は来るかどうかもわからない」

「訪れたその明日が最後の日とわかったなら、 その約束は、最後の日を過ごす方法としては、イマイチだ」

「明日、自分の気持ちやコンディションが その約束に向かう保証はない。 それは自分でも、わからない」

ちょっと大げさに書いてみたけれども、 ここに侮蔑の意を示すつもりはない。

それどころか、これはまさしく、 「いま、ここ」に強烈なフォーカスを当てながら 「自由」を希求する精神そのものではないか。

皮肉にも、ぼくたちが求め続けた態度ではないか。

これが、ぼくには

「『いま、ここ』だけに集中して、自由のもとに動く」

(その時々の『いま、ここ』の、自らに由る精神で動く)という

ひとつのこころのあり方のムーブメントのように感じられるのだ。

「予定が入らなかったら」と言われたら、それは

大好きなミュージシャンのコンサートの日にちのように、 「いま、ここ」の自分が、将来の「いま、ここ」の自分を 約束として結びつけておくだけの影響力がなかった、

ということであり、その時点でこちらはいわば「負け」なのだ。

たとえ自分としては 「『約束』というものが通じない」というのが不都合であっても あくまで他者のあり方を尊重しようとするならば、

①「約束の意志」がない人は、カウントしない →できるだけ早く次の「約束の意志」もつ人を探しておくことで 「約束の意志」を持たない人の可否に左右されない

②「約束の意志」を持たない人でも 合流を許すだけの余裕と、即興力でなんとかする気概をもつ

という2つの方策が考えられる。

あとは、双方が 「(自分の行動について)これはまずかったな」と思ったら その都度、自分の意志に基づいて、 自分が気持ちよく過ごせるように、調整していくことだ。