自らの打算 とロジックの限界 にまつわるはなし

例えば、 「総合職」的なところへの就職活動で 正直な就活生はどんどん追い詰められていく、 その原因はこういうところにあると思う。

大学の専攻から、実際の「総合職」的生活へは、 極めて整合性に欠けるトランジションなのに、 さも、整合性があるかのようなロジックの提示を 求められる。

「『志望動機?!』そんなモん、ネーっすよ! 手っ取り早く評判とカネが 手に入りそうなチャンスだと思ったから、 オーボしたんス!そこんとこ、夜露死苦!」


まず、 自分の「こうであってほしい」という 世界観が先にあって、

それの実現のために理屈をこねたり、 主観的に選択された部分を切り取った “客観的”データを持ち出したり、 自分の経験と結びつけたりして、

「こういうわけで、自分の意見は妥当だ」 という主張をするのだ。

最初に述べた通り、 出発地点は「こうであってほしい」であって それ以上でもそれ以下でもない。

だから、 「どうして、それが妥当と思うのか」 「どうして、そのロジックを持ち出したのか」 「どうして、逆ではダメなのか」と

「どうして」を繰り返していくと、実はただ、 「自分が『世界はこうであってほしい』と思っているだけ」 という壁にぶつかってしまう。 ほんとは、そこから先に理由なんてない。 ただ、強い思い(込み)があるだけだ。

それを、無理して

「言われてみれば、どうして自分は 『こうあってほしい』と思うのだろうか?」

などと自らに問いかけてしまったら、

そこから先は、どうしても 自分の打算的な部分にぶつかってしまい、 他人を説得する前に 「自分の準備不足だ…」と落ち込む 結末になるだろう。 「自分の考えが甘かった」と。


「どうして」を繰り返せば、 辿り着くのはそれ以上でも以下でもない、 「こうであってほしい」と思う自分の世界観、 それは、ニアリーイコール、「価値観」だ。

自分の価値観の通りに相手は動かせないが、

「『自分は』こういう思いを大切にしているから、 (あなたの考えを変えることはできないかもしれないが) 『(あくまでも)自分は』こういう風にしたい」

という、理屈で覆われていない極めて弱いところを 提示するところから、 「じゃあ、こうしてみよう」という 話し合いが持てるかもしれない。

相手が悪ければ、持てないかもしれない。

誰にでもある、 誰にも知られたくない 打算(そんなものはない、 私は100%他人本位でやっている! と思い込んでいる人がいるとすれば、 そっちの方が、よっぽど厄介だ) の存在を、それっぽい理屈で カバーして、何とか通すために、

僕たちは言葉を勉強しなくちゃいけないし、 数字を勉強しなくちゃいけない。 先人の失敗の歴史も知らなくちゃいけないし、 社会情勢も知らなくちゃいけない。 海外の人とのコミュニケーションを通じて、 “遅れている”日本を揶揄しながら「新しい常識」 を持ち出せれば、強いのかもしれない。 「科学的根拠」は素人相手には「最強」か。