くだらないの中に

ひょっとしたら、 くだらないことをどれだけ書けるか みたいなところにこそ、

自分の無意識的に大切にしている思いが含まれていて、 そこに人の心に届くようなことが ポロッと転がっているのかもしれない。

「これは、きっと共感を得られるゾ!」 とホクホクしながら文章を書くと、 どうしても教条的になり、どこか 嫌味になることは避けられず、

「あるある」と認めさせるために どこか、主語を欠いた文章になり、 どんどん抽象的な文章になる。

手の内を明かすようで恐れ入るが、 こうした感覚で書いてきた文章が、 実は結構ある。 こうした感覚で口から発してきた言葉が、 実は結構ある。


第一、おれが「くだらなくないこと」、 すなわち「有意義なこと」と思っていることは 一体なんなんだ?

あったとして、それを 「有意義だから、取り組んでいる (意義がないと分かれば、やめちまう)」 というのは、どこか傲慢ではないか。

ましてや、おれの基準で 「有意義だ」と認めたことを 他人にまで価値観の共有を求めるのは もっと、嫌な感じがする。

選択肢があったときに、 「より、ソーシャルな方」とか、 「より、困難な方」が「有意義だ」とか 思い込んでいるんじゃないだろうか。

逆にだ、 「くだらないと頭でわかりながらも、続けてしまう」 「くだらないと頭でわかりながらも、気づいてしまう」 ことがあるとすれば、それはもう、 「意義がなくとも、自分にとっては必要である」 ということを無意識のうちに認めている 何よりの証拠だ。

「好き」「嫌い」で語るのとは次元が異なる、 その「くだらないとわかっていること」 を排除することなく、時には 頭を悩ませながらも日常に織り込んで、 その存在を前提に生活を送る。それは、 すなわち「愛」だ。

そこに秘められた、極めてファジーで 自分ですら完全には言語化できない思いを 折に触れて浮かんだ言葉で 形容することを続けていったなら、

実はそこにこそ、他人の心に 狭く、深い共感をもたらす思いが あるのかもしれない。