まじめの受け皿「まじめトーレランス」 のはなし

他人が、自分の興味関心とは別に、 その人がくそ真面目に向き合っていることを、 自分の理解をよそに滔々と語るのに対して、

もちろん、 完全に理解はできないかもしれないが、 「フンフン…」と聞いていられる クオリティのことを、僕は勝手に 「まじめトーレランス」と呼んでいる。 (「トーレランス」とは 「許容度」を意味する英語のtoleranceから)

平たく言えば、 「なに、そんなにまじめになっちゃってんの」 という言葉がつい、出てしまうまでの閾値が 高いところにある概念をさす。


巷では「頑張らない」という言葉が 「モーレツ時代」へのアンチテーゼとして 使われることがしばしばある。

(第一、あえて「頑張らない」という言葉に しないといけない時点で、 それでも「頑張っちゃう自分」だと暗に認めつつ、 それは「隠しておくべき自己」として 無理やりビンに閉じ込めフタをするようなもので、 頑張り屋さんな自分はたちまち行き場を失う)

それが、ときどき 「“ふまじめさ”への同調圧力」 のように感じられることがある。

そうして、おかしな話だが、 その圧力をまじめに察知する人が 「まじめに“ふまじめ”を目指す」のだ。

(思うに、厳密に言えば 「まじめな人」と「ふまじめな人」 が存在するのではなく、存在するのは 「まじめっぽいこと」と「ふまじめっぽいこと」だ。

その前者に真面目なひとが「まじめなひと」、 後者に真面目なひとが「ふまじめなひと」 とそれぞれ見なされるだけだ。

「まじめっぽいこと」「ふまじめっぽいこと」 それには、明確な基準がなくて、 「役立ちそう」とか「人に影響を与える」 とかいう感覚で、なんとなく、 空気で決められている。)

「まじめは損だ」「まじめはウツになる」とか そのテの印象論的な乱暴な言説がまかり通る時代に、

「まじめにふまじめを目指すご主人サマ」 のお陰で、その行き場を 自分の中にさえなくしたまじめさは、 ますます窮屈な思いをしていることだろう。

そういう意味で、どこかの誰かの まじめさの受け皿として、 「まじめトーレランス」はいまや、 意外と希少なクオリティではないか。

そしてそれもまた、 「ふまじめさへの同調圧力」によって 簡単に捨てられるべきものでもない、 と僕は思う。