第3の「これがいい」のはなし

「結成したバンドは、いつか 『音楽性の違い』によって解散する 宿命を背負っている」

今日のテーマである 「第3の『これがいい』」の概念を説明するとき、 このかなり乱暴な「バンド解散」の命題を 持ちだしている。

バンドマンがそれぞれ、 メンバーと仲良く音楽活動をしているうちに、

「自分のやりたい音楽」というのが見つかり、 (それはもちろん、 メンバーとのバンド活動があってこそ、 見つかったものなのだが) それを追求するために 「音楽性の違い」によって解散する、 というきわめて陳腐なものだ。


人が2人以上集まったら、そこには

自分の思う「これがいい」 (これを「第1の『これがいい』」として、)

他者の思う「これがいい」 (こっちを「第2の『これがいい』」とする)

それらが合わさった「第3の『これがいい』」が生まれ、

もし、少しでもその他者と 一緒にやっていく気持ちがあるならば、 その中で、それを絶えず“調整”しながら やっていくことになる。

バンドメンバーの中でも、

「自分のスタイルと完全にマッチしないが このメンバーでやるのが楽しい」とか

「そもそも自分のスタイルと 呼べるものが存在しない」

みたいな間は、 無意識のうちに第3の「これがいい」 に放り込まれている。

(図① 「バー」を左右に絶えず動かし続けて 「人間関係」ベースではなく、 「その時・その場面」ベースで 自他の「これがいい」の割合を 都度「調整」する 「第3の『これがいい』」モデル)

ただ、いつか 自分の思う「これがいい」と そこにいる他者の「これがいい」との間で、

「調整」の域を超えて 自分の信じる「これがいい」を 追求したくなったとき、 (第2の「これがいい」に 付き合いきれなくなったとき)

(パワーの非対称性によってそもそも、 「調整」機能が働いていないと 判断(できるくらいには 自分の「これがいい」が輪郭を 帯びて)したとき、も含め)

その意識の変化を自覚しているものが (つまり、やりたい「自分の音楽」 というやつを持ってしまったものが、) 自らの判断で退却しなければならない。

(もちろんあるバンドから退却した先にも、 他人との出会いがある以上、 第3の「これがいい」の間で 絶えず調整をしなくてはならないのだが。)

これは、 どこかの誰かにとっては 痛々しく思われるのかもしれないが、 必ずしも「悪いこと」とは言い切れない。

そもそも自分の、 他人によって揺らぐことのない 「これがいい」が見つかることは そうあるものではなく、

その強い自分の「これがいい」を、 時には傲慢とも言える態度と知りつつ 自分の中に認められればこそ、

「自分の音楽」の先で出会った 他者の思う「これがいい」を 受け入れるかどうかは別として、 「それも、そうだね」と言って 認めることができる、 その幅が、広くなる。

これを、「一皮剥けた」と言うのだろう。

(図② 縦にサイズが大きくなって、 自分の思う「これがいい」と 他者の思う「これがいい」の 許容レンジがそれぞれ広くなっている、 のモデル)