他人の「ゆるい」は信じるな

 

ほかの人から見れば 「ゆるく」なんてないのに、 「脱まじめ」をそのまま “まじめに”受け取った人が言う 「ゆるくやろう」は、結構、罪だ。

その人の「ゆるい」レンジは あくまでもその人の置かれている 環境によって基準値が設定されていて、 ほかの人の思う「ゆるい」とは 言葉が一緒でも重ならない部分も多い。


ダブル・バインド」という言葉を 聞いたことがあると思う。

親や上司から

「私の言う通りにやりなさい」 「なんでも私に聞くな!自分で考えろ!」

という反対のメッセージを 受け取り続けると、いつしか

「何をやっても叱られる」 「それなら、服従するほかない」という

マインドコントロール的状況に陥る、 というのは「ダブル・バインド」の一例だ。

 

これが、 「たしかに『ゆるく』とは言ったが、 そこまでゆるくやれとは言っていない」

などと言うことになれば、結局、 その人の発しているメッセージは

「私の『ゆるさ』に従いなさい」

であることを認識しなければならない。


「キツい」「ゆるい」は あくまでもそれぞれの主観によって 決められているだけであって、 まじめな人の言う「ゆるく」 なんていうのは 目指したいスタンスを表すものであっって 客観的にはどうなっているか、 場面ごとに違っていて、 そこには一貫性が、ない。 (なくて当然。あっても困る。)

まじめな他人の「ゆるさ」を 額面通りに受け取ることなく、

「怒られても、なお」と 大事に思うことをこそ、なんだ。 (もちろん、 「怒られてやめること」もある)