「やらない善よりやる偽善」のはなし

「やらない善よりやる偽善」という言葉にさえ、 そこに自分を善人と信じて疑わない人の プロパガンダ的なものを感じてしまい、 僕はそれにたいして懐疑的だ。

大義名分に自分のこころが追いつかない人が ツイッタラーかもしくは 「世論」的なサムシングか何かに影響されて 「やらない善よりやる偽善」と 自らにあえて言い聞かせ、 「偽善」の手助けをしたのちに、

「(あのお金・労力は なんだか気持ちよく手放せなかったが) 人のためになるんだからいい(仕方ない)」と

認知をわざと書き換えるのは 実はからだが「NO」と言っていた結果である 証拠ではないか。 少なくとも、 からだが「GO」と言わなかった結果だ。

同じ「やらない善よりやる偽善」という言葉でも、

からだが「GO」と言った結果 考えなしに手助けをした、その結果 お節介だったとわかった、その結果 「善」にはならなかったから 結果だけ見れば独り善がりの 「偽善」になってしまったそのとき

それ以上自分を責めないための理屈 くらいにしとこうよ。

「正しさ」を帯びた、しかし 自分のこころが追いつかない「大義名分」に 怯え、揺さぶられる自分自身・他人に対して 投げる言葉としてでなく、だ。