「明日死ぬと思って生きなさい」論について本気出して考えてみた

「明日死ぬと思って今日を生きろ」

「明日死ぬと思って今日を生きろ」

そんな言葉をしばしば目にする。 (ちなみにこれ、ガンジーの言葉なんだそう)

しかしなんだかしっくりこない。

「明日死ぬ」という仮定自体が、 平和ボケして過ごしている人間にとっては あまりにも非現実的だし、

そうなれば、「明日死ぬ」という仮定があっても 明日のことを考える気持ちを拭い去れない。

それでも、「明日死ぬと思って生きろ」 と言う人がいる。

僕はまだその言葉の意味を上手く消化できずにいるけれども、 いくつかの解釈は浮かんだ。


1.「やりたいこと」を本当にやってみる

一番簡単な解釈がこれ。

普段から「焼肉を腹いっぱい食べたい」とか、 「きれいなおねーさんに囲まれたい」とか、 「日本縦断してみたい」とか

そんなことを口にしているなら、 ぐずぐずしていないでそれをやってしまえ、という解釈。

たしかに、「明日死ぬと思え」と言われた その瞬間のみ、パッと背中を押してくれそうではある。

本当に明日死ぬならいいけど、

もし夜のお店でお金を使いまくったり、

高級焼肉店で散財したりしたら、

まぁ・・・お金のことはなんとかするにしても、 終わってからの虚しさが大変なことになりそう。

「明日から日本縦断の旅に出ます!」 宣言をしたとして、

(例えばね、)自分の抱えているクライアント、 プロジェクトをそのまま放りだせる人も多くはない。

そういう人(大物)は、そもそもその仕事を辞めた方が 自分のため、客のため、ひいては世の中のためになる。

(皮肉じゃありませんよ)


2.「自分はいま、やりたいことをやれている」

「人は無意識レベルでは、『本当にやりたいこと』の 世界でしか生きていない。」 というのが僕の主張。 「やりたいこと」と「本当にやりたいこと」の違い

「本当にやりたいと思えば、考える間もなくやってしまうから、 たとえ頭に浮かぶ『やりたいこと』ができていなくても、 自分は既に『本当にやりたいこと』をやれている」

という考えに立てば、

「自分は特に贅沢な生活も派手なこともしていないけれども、 今自分が生きている世界は本当に自分が望んだ世界であり、 その絶妙なバランスを、自分は愛している。 だから、明日死んでも、後悔はない。」

そういう考えに自分を落とし込むことができる。


3.「エネルゲイア」的観点

ギリシアの哲学者アリストテレスは 以下の二つの概念を提唱したという。

●「キーネーシス」 目的に到達するまでの道のりは、 到達していないという意味において「不完全」

●「エネルゲイア 「いまなしつつある」ことがそのまま「なしてしまった」ことである →過程そのものを、結果とみなす

ここでとりあげたいのは後者の「エネルゲイア」。

この「エネルゲイア」的観点に関連して、 アドラー心理学には

「人は、点でしか生きられない」

という説明がある。これは、

自分の理想というゴールと、 現在地とが直線で結ばれていて、 いま自分が何%のところまで来ているか という考えではなく、 瞬間瞬間を 一つ一つの完結した点としてみなし、 それをあとから結んでいくことで、 その人の人生の道のりができていく

というもの(だと思う)。

そんなことについて、同じくアドラー心理学では

「今、自分にできることを、真剣かつ丁寧にやること」

それしかできない、と説明されている。

一日のうち、 起きている時間はせいぜい16時間。 今持っているお金も、その他自分のリソースには、限りがある。

「明日死ぬ」のにも関わらず特別なことができない、 という点で逆説的だけれども、

「今日出来ることには、限りがある」

それを認めたうえで、 今日出来ること、今日やりたいこと、 (ひょっとしたらそれは「何もしないこと」かもしれない) 心の声をききながら、丁寧にやっていく。

それこそが、「エネルゲイア」的視点に立った 「明日死ぬと思って生きる」考え方。


おわりに

余談だけれども、 昨日から僕は正式に「正社員」の肩書きも失って、 めでたく(?)「無職」の身になった。

正社員の肩書きがあるときは、

ほとんどの時間を“他人の時間”として会社で過ごしていたから (もちろん会社での時間を“自分の時間”として過ごせる人もいる)

「日々の生活にやり残したことがある」

「将来の昇給、昇進、その他将来待ち受けているであろう 良いことが、きっと起こるから」

というマインドが基本的にあって、それを理由に

「明日死んでは困る」

と思っていた。

(いつまで続くか分からないけれど) 完全に無職となった今、

今日やることはやった(今日は充分“自分の時間”を過ごした)し、

先述の「将来起こるであろう良いことの可能性」 のためにはもう生きていないから、

大袈裟な話、(自分の意識と関係なしに)

苦痛さえなければ明日死んでも構わない

みたいなことを思うようになった。

(こんなことを書くと「病んでる?」 と言う人がいるので言い訳しておくと、

もちろん、普通に生きます。笑 楽しいこといっぱいありますし。 あくまで「悔いは少ない」という心持ちの話、です。)

そういう意味で、解釈2とか解釈3に近いかな?

それから

「明日死ぬと思って生きなさい」の続きには

「永遠に生きると思って学びなさい」

という言葉が続く。

これまた含蓄のありそうな言葉。