真の「自信」とは「態度」のことダ!

「根拠のない自信」ってナンだ?

しばしば、「根拠のない自信」という言葉を耳にしますね。

これは、裏を返せば 「通常、自信には根拠がある」と言うこと。

そうなると、ますます「『根拠のない自信』ってナンだ?!」 と言うことになります。

僕が思うのは、「根拠のない自信」こそがホンモノの「自信」 であり、何かをきっかけに持つ「もの」ではなく、 何か新しいことにチャレンジしようと思ったときに 持たざるを得ない「態度」だ、ということです。。


「“すごい”成功体験」に頼る「根拠のない自信」 の脆さ

とは言っても、こんな疑問が残るのでは?

「『根拠のない自信』を持ってる人って、 結局これまでにいろんなことを成功してきた人なんでしょ?」

例えば、こんなの。

「自分は、頑張って苦労して名門校に入ったし、 学生時代は学生団体を立ち上げて、表立った社会貢献もした。 卒業後は一流企業と呼ばれるところでトップの成績を挙げた! だから、やったことがなくてもこれからやろうと思えば 何でもできるんじゃないか?」

これは「帰納法」的推論による「自信」

(「あれもできる、これもできる、それもできる。 だから、○○もきっとできるだろう」のように、

異なる事柄の共通項=ここでは「やればできる」 に基づいて、未知の事柄に対する推論を導き出すこと。)

「やったことがないことに対する自信」 という意味では「根拠のない自信」と呼べるかもしれません。

でも実はこういう「自信」には脆さが存在するのです。

それは「やってもできなかったこと」が 自分の認識の中で増えてしまうとその推論が崩れてしまうこと。

すると、「やってもできなかったこと」が 生じないように、やりたいと思っても 「やれそうにない」と思ったらやらないだろうし、

もし「やってもできなかったこと」があったら、 それを何とか誤魔化そうと、自分に嘘をつきながら 虚勢を張る努力をするでしょう。

つまり、このロジックでは 「できない自分」と言うのを認めてはいけないのです。 そういうわけで、結局「できそうなこと」しかできない。

というわけで、

「根拠のない自信」とは過去の成功体験の集団に基づくものではない

と言うことが分かると思います。

(まぁ、厳密に言えば 「あれもできる」「これもできる」「それもできる」が 「根拠」になっている点で、 そもそも真の「根拠のない自信」とは言えないわけですが・・・)


真の「根拠のない自信」とは 「自分は、信じられる」という大前提から始まる

それに対して、主張したい「根拠のない自信」というのは とてもシンプルです。

「何があっても、(どうなるかわからないけど)自分を信じよう」 という態度そのもののこと。

たとえ既存の成功体験が 全く(といっていいほど)通用しないと分かっていてもなお、 「やってみたい!」と思ったときに心の拠り所となるのは

「何があっても、(どうなるかわからないけど)自分を信じよう」

という強い態度、=「根拠のない自信」しかありません。 過去の成功体験はアテになりませんから。

この場合の「自信」は「演繹法」的推論によるもの。

「自分は、信じられる」という大前提から、

「どんな状況においても、自分は信じられる」という結論へ。


おわりに

誰かに「根拠のない自信を持て」と言われたときに、 実際に「根拠のない自信」がないからと言って 落ち込む必要はありません。

(そもそも、他人に「自信を持って」と言われて 持つようなものは自信ではないのですが。。)

なぜなら、そういう場合はまだ 「根拠のない自信」に頼る必要があるほど リスキーな状況にいない、ということだからです。

ただし、既存の成功体験が通用しないかもしれない、 というリスクを背負ってでも 何か新しいことにチャレンジしたいと思ったときに、 頼れるのは「根拠のない自信」だけだとすれば、

その結果がどうであれ、「実行に移した」という 事実そのものが真の自信の表れです。

ですから、周りの大人が良かれと思って 「成功する方法」みたいなものを教えようとしますが、

その方法も含め「自分で選ぶこと」そのものが大事なのです。

「結果はどうあれ、やりたいと思ったことをやった」 という事実だけで自尊感情が生まれる、 と言われる理由はそういうことにあるんだと思います。