もしも誕生日に「課金」をねだられたら という仮定のはなし

「同じ6,000円分のプレゼントを誕生日にねだられたとして、

それがオンラインゲームの課金だったら許せるか?」

という何気ない妻の質問に対して、

 

僕の時代感覚がアップデートされていないためか、

それともそうしたお金の使い方について、

深く考えたことがなかったからか、その場では

 

「いや、それはちょっと」

という返事をするにとどまった。

 

同じ「ゲーム」というくくりであっても、

「ゲームソフト」ならたぶんOKな気もする。

それじゃあ、「同じタイトルのゲームソフト」であれば、

「ダウンロード版」はOKか?と聞かれると、ちょっと顔が曇る。

しかし今はそのはっきりとした理由が思い浮かばない。

(ちなみに僕は、過去に「ライト勢」ながらスマホゲームもしていたし、

家に帰れば子供のようにテレビゲームで遊んでいる)

 

「『モノ』として実態がない」というくくりであれば、

6,000円の日帰り温泉旅行もたしかに「コト」があって「モノ」ない。

それなのに「ダウンロード版」に対してためらうのはなぜか?

「課金にはキリがない」と言うけれども、食欲にも終わりがない。

6,000円のディナーは良くて、課金はだめなのはどうして?

 

それに対して「だめな理由」を明確に示すことができない。

それと同時に、明確な「だめな理由」がないからといって、

それがすなわち「良い理由」に転じるわけではない。

子供が不都合な時に「どうして?どうして?」と聞いてきても、

必ずしも「だめな理由」を明確に示すことができないが、

だからといって、「だめな理由がないこと」がそのまま

「やっていい理由」にはならない。

ただ、双方の価値観はただ「等しくその存在を『許されたもの』」である。

社会的な良し悪しはあれども、その基準は普遍的ではない。

 

今のところ、

「たぶん、お金の使い道に普遍的な良し悪しはない」

(「パズドラ」に課金しまくったおかげで、

若手社員とのコミュニケーションが捗った、という

中年社員の話を飲食店時代に聞いた)

「君の言い分は間違っていない」

「けれども、『いまは』あげる側の自分の気持ちが追いついていないから」

「あげるからには、気持ちよくあげたいから」

「あげるからには、気持ちを込めてあげたいから」

というくらいの理由しか、示すことができないが、

それ以上でも、それ以下でもない。

それは正しくもないし、間違ってもいない。