「みじめさ」と「おちごとの時間」はなし

   今日は休みだ。今朝、僕の奥さんと一緒に作っている(自分が「やっている」と言って許されるのは3%くらい)借りた家庭菜園の収穫・手入れをしてきた。朝起きたままの格好で外へ出ていったから、iPhoneはおろか、腕時計さえもつけずに出かけていった。畑で採れたインゲンは時期が過ぎてちょっとカタそうだったが、これを味噌汁に入れたらどんなに美味しいだろう、と思いながら作業をしていた。時間が過ぎていったような気がするものの、時計がないんだから時間が分からない。作業した時間に関わらず、作業が終わりさえすればあとは自由な時間だ、とストンと思える感じがなんだか新鮮に思えた(もちろん、帰宅後はインゲンとキャベツの入った味噌汁を作って、味わい、楽しみ、二度寝をした)。

 

  「与えられた作業が終わりさえすれば、あとは自由な余暇の時間だ」という状況は「作業を早く終わらせること」のインセンティブになる。そしてそれは、今巷で取り上げられる「生産性の向上」につながる(「生産性」を主張する某著名ブロガーも「生産性を上げたければ、投入する時間を減らせ」と言っている)。その生産性が非常に高い人たちを僕たちはみんな知っている。「宿題は(テキトーにやって、)早く終わらせる」小学生たちである。そんなモデルが身近にあったにも関わらず、「与えられた作業が終わりさえすれば、あとは自由な時間だ」などと思うことができない。

 

   前述の小学生とオトナの決定的違いは「自由時間にやりたいことが、ない」という大問題だ。気がつけば、内発的動機に基づいて「やりたい」などと思えることなんて全くない。いや厳密には「やりたいこと」は本当は考える間もなく既にやっていることの中にあるのに、「飯のタネになるか?」というおフダが貼らさっていて、そのおフダが唱える疑問に「イエェェェェス!」と大きな声で返事ができなければ、それはすなわち「なんか、ちがうこと」としてゴミ箱にポイされちゃう。そうすると大抵、飯のタネになるかどうかなんて確信できないから、何も残らない。「自由な時間ができたところで、やりたいことはない」「やりたいことがない自分は、みじめである」「それならば、お仕事を、せめて、『しているフリ』だけでもしよう」「そうすれば、みじめな自分を見ずに済むから」「(苦役としての)仕事をしていない、と思われちゃいけないから、ポーズだけでもしていなさい」。

 

   気がついた頃から、少なくとも受験勉強を頑張っていた時期から「スキマ時間」とか言って、寸暇を惜しんで勉強することが良しとされてきたし、それを良しとする価値観を自分の中に内包させていった。幸か不幸か、別にお勉強が不得意でもなかったから、別に苦でもなかった。

 

   ちなみに僕も3年前に「しばしお暇」をいただいいていた。その間僕は文字通りなかなか暇だったし、退屈でもあった。その退屈の中にあっても、「まずは自分を責めないように」ということをずっと考えていた。そんなことを考えていたという時点で、実際には自分を責めるような気持ちがどこかであった、ということだ。「乃木坂46」のバラエティ番組と『スターフォックス64』の実況を日がな一日横になりながら見て過ごした時間は、なんとも言えない感覚をもたらした。実際、なかなかみじめだった。別に誰かに必要とされるわけでもなければ、彼女(今では奥さんである!糟糠の妻)に極端な節約生活を強いてしまった。その他諸々のみじめさとずっと対峙してきた時間だった(僕はみじめさを完クリした、などと主張するのではない。対峙したことが一つの経験として残っただけで、今後もみじめさが顔を出す場面はいくらでもある)。

 

  みじめさは味わいたくない。わかる。だがもっと強く思うのは、そのよるべなさからくるみじめさから目を背ける先が、なんとなく「お仕事」に向かうと、「暇つぶしの仕事」をするようになり、結果「仕事のための仕事」が増え、労働時間はいつまでも長引き(酷ければ「働いていた方が気が楽」ということになる)、帰ってもすることがなく、たとえ経済力に余裕があっても生活そのものに余裕がなくなる。まるで薬の中毒者のように「仕事っぽいこと」を求め、「何かやった気」になって帰ってくる。そのスパイラルだ。

 

   まずは、そのみじめさをとくと味わわなければならない。そうでなければ、仕事はいつまでたっても終わらない。というより、“自らの意思”で「終わらせるわけにはいかない状況」に拘泥しなくてはいけなくなる。