そもそも人間は考えることを望んでいるか

 僕はこれまで「自分の頭で考えること」を重要視してきた。それは、「(短期的に見た)より良い結果のため」というよりは「その決定に至るまでの自分の内的思考プロセスを知っていること」が、「後悔しないこと」「どうにもならない他者を責めないこと」につながり、それが小さい一歩一歩をすすめるドライブになると強く思っているからだ。そしておこがましいことながら、周囲の人間にもそうして欲しいと願いながら日々を送ってきた。しばしば「あんまり考えこまないように」などと諭され、「より、思考の少ない方へ」と手招きされるようなこともある(大抵、余計なお世話だ、と思う。ただ、そもそも人々は「自分の頭で考えること」を望んでいるのだろうか?という問いについては考えることがなかった。そんな時、『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)という本の以下の記述に出くわした。

 

 しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。

 だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。

 人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないで済むような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である。

 

確かに、僕たちは都度考えなくて済むように、都度話し合わなくて済むように、習慣を作り、ルールを作る。便利なツールを導入する。さらに僕たちは働かなくて済むことを目指して、より良い仕組みづくりのために考え、はたらいている。日々の業務や作業を、自分の中で極力ルーティンに落とし込もうとする(職場に慣れるまでは大変だが、ある程度慣れてきて「自動運転モード」に切り替われば後は同じような日々を過ごすことができる)。

 

 さらに著者は哲学者・ドゥルーズの思想を持ち出しながら、以下のように述べている。

 

  ならば人間がどういうときにものを考えるというのか?ドゥルーズはこう答える。人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。

 考えることの最初にあって、考えることを引き起こすのは、何らかのショックである。ということは、考えることを引き起こすものは、決して快適なものではない。ドゥルーズはそのショックのことを「不法侵入」と呼んでいる。(中略)ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれた習慣が多かれ少なかれ破壊される過程と切り離せない。

 

 そのうえでもし、他人に「考えること」を強く求めるならば、他人の生を導いてくれた思想や習慣に対して「不法侵入」するような存在になることから逃れられない。

 自分が強く疑った世の中の・身の回りの習慣をすこし「イジッた」ものを自分の行動に落とし込み、自分の言動を通じて他者の世界に「不法侵入」する。そこには少なからずコンフリクトがあるし、当然、嫌われる可能性がある。これは、トンデモなく孤独な作業だし、徒労に終わる可能性もある。