「くそ仕事」と「反RPA化」によせて、「暇」についての話をする

 事務作業のような「くそ仕事」はどんどんなくなって然るべきだと考えている。ちなみに、僕は実際に事務作業に従事している人たちを馬鹿にしているのではない。あくまでもそのような仕事には極力時間や心身のエネルギーを割くものではなく、できることなら早くやっつけてしまうべきで、それに誇りやりがいを見出すべきでもない、という意味において「くそ」だと考えている。事務そのものは、「遊び」を「仕事」たらしめるものであり、非常に重要なものだと考えている。

 実際、事務作業にかける時間は様々なツールを使うことでどんどん短くすることができるようだし、RPA化が時間削減につながっているのはもはや明確な事実と化している(以下のリンクを参照)ようだ。

 しかしそれと同時にこんな風にも思う。もし事務作業がなくなってしまえば、職員としての立場が残されていたとしても、その場で(与えられた仕事として、つまりそこにいる大義名分のようなものとしての)「やること」がなくなってしまう人はたくさん出てきてしまうんだろう、と(自分もそれなりにデスクワークをしているから「高みの見物」ではない)。

 このRPA化の波にとことん抗うこともできるのだが、RPA化はいよいよ我々が向き合って来なかった(向き合わずに済んだ)問いについて考えなければならないこともまた示唆しているようにも思う。

 

 いわゆるRPA(:ロボットによる作業自動化)について、興味深い2つの記事を見つけた。

 

弊社のRPA化が人権意識で吹っ飛びました。 - Everything you've ever Dreamed

この記事の筆者は会社のRPA化の方針に対し「削減された時間で本来取り組むべき仕事に時間と労力を割けるメリットが大きい」ということで賛成だったのが、管理部門のトップの「人権意識」のもとにその方針が頓挫したという話。その人物は(事務作業について)以下のような「人権意識」論を展開したという。

すると彼は「単純作業と雑にひとことでまとめられるのは心外だ」「それにそういう作業を奪われてやることがなくなるほど悲しいものはない」と切り出すと「我々の仕事を侮辱しているし、我々の人権を否定している」と言い、最後に「伝票のまとめかたひとつにも人間性は出てくるものなんだよ…」とご本人は心に響かせるつもりだがまったく心に響かないフレーズでまとめた。

それを聞いた筆者のボスも、結局「人権意識」の名のもとに自らぶち上げたRPA化の方針を覆してしまったようだ。

「やはり、人を相手にしている商売をしている以上、働いてもらっている人間の権利をいちばんに考えなければならないよな。よし計画は一時とうけーつ!」というボスの軽い一言で議論は終わった。こうして弊社のRPA化計画は、人権意識の前に敗北したのである。

RPAで時間がどんどん削減されていく - orangeitems’s diary

こちらの記事にはRPA化が大企業を中心に時間削減に効果を上げている調査を示しながら、「人権認識」と重なる部分について、かつてPCを使った“手作業”が多かったことについてこんな表現があった。

大企業では、そんなにたくさんの人がパソコンとにらめっこして、データを切り貼りして手入力していたということですね。そしてそれが、仕事となっていた。そして給料が支払われていた。生活の糧となっていたし、仕事の誇りとなっていた。

 先に挙げた記事の引用と重ねると、かつてはそのような作業仕事が、たしかに人々の仕事における誇りの一部であり、そうやって用意されたイスに座って事務作業をして、得られる給料が立派な生活の糧になっていたのだろうと推察できる。

 地域コミュニティにほぼ完全に取って変わってしまった職場というコミュニティにおいて、現場の職員がひとりひとり考えて実際に価値を生み出すことよりも、あくまでもその成員として「食わせること」を自他に納得させるため「働かざるもの食うべからず」の論理からの「隠れ蓑」としても「くそ仕事」が機能していたのだろう。

 

 生きていくには他者との関わりが不可欠だろうが、僕はコミュニティ意識を職場に持つにはもう限界が来ていると感じている。「生活の糧を得る場」「自己実現の場」「情報交換の場」「仲間意識」など、我々は仕事や職場というものに多くを求めすぎていた(そりゃ、起きている時間のほとんどを費やすのだから、当然といっては当然だが)。人間の手にちょうどいいような処理スピードで済むような“仕事”を、人のイスの用意のためにわざわざ用意し、それを管理するのがかえってコスト高になるからだ。それならば、機械に任せられる部分は出来るだけ任せて、そこで生じた時間の使い方をこそ考えていかなければならない(もし、それで本当に雇用が削減されてしまうならば「給与から税金を徴収する」という仕組みを改めなければならない)。その時間をそのまま休んでもいいだろうし、もしくはこれまで「くそ仕事」で埋められてしまって出来なかったような、自分の頭を使って追及する仕事に費やすべきだ。

 脱・根性論を謳うものとはいえ、精神論で恐れ入るが、そのためには、芯まで染み付いた「働かざるもの、食うべからず」に代表される勤労のイデオロギーから脱却しなければならない。『暇と退屈の倫理学』という本はこんな言葉で締め括られている。

退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いについて考えることができる。

 ともすれば「暇は悪」とか「暇があったら働け」などと考えてしまいがちだ。しかし定型的な「くそ仕事」はむしろ人間がやらない方が効果的だという時代にあって、我々はそこで生じた暇を「つぶすべきもの」「埋めるべきもの」と考えることなく、あえて暇を暇のまま引き受けるべきだ。その時間に自分の好きなことをしながら「スタンバイ」しておくことで、そこで生じた(良い・悪い問わず)出来事に対処することができる。しかしさらに深い層の問題は「そもそも、我々は勤労のイデオロギーの名の下に『好きなこと(やりたいこと)』を追求することさえ、阻まれてきた」ということだ。「好きなことをやろう!」スローガンを掲げることはできても、その精神性の根本の解決には繋がらないだろう。この問題については、また時間をかけて考えよう。