「『排除ムード』と『マイノリティの包摂』における個人主義的リーダーの役割について考えて高熱を出す」

  僕は長らく何かをするにあたって「そこに意志があること」を非常に大事にしていたという意識がある。「むやみに常識とかマナーとかで個人は縛られるべきでなく、そこに意志があれば、それに基づいて実際にやってみることが大事だ」と思ってきた。今だってきっとそうだ。しかし、「『マイノリティを社会に包摂する』ということを考えたとき、必ずしもそうではないのではないか」という疑問から、小さな壁にぶつかり、方針転換を迫られているような気がする。

  なぜそんなことを考え、方針転換を図る必要性を感じているのか。それはきっと僕の立場が変わり、いま曲がりなりにも、とある社会における「リーダー」の立場に(今までも何度もやってきて、何度も失敗してきている)あることに起因している。そして最近「あるコミュニティでの参加意志が表明されないことで、その構成員によってある個人が排除されるムードが生じている」事例に出会ったからだ。「参加意志のない人は出て行ってよし」という論理に基づく“排除ムード”は(たとえその当人に多数派が認める問題があったとしても)、そのまま見過ごすことができない、というか、「コミュニティ」とか謳っている以上、見過ごしていい訳がない。その事例に触れるなかで「自分は誰かを守れるだろうか?」という疑問が頭をよぎる。その度にそこはかとない焦りのようなものを感じる。その感覚を振り返るにつけて、僕はおそらく無意識のうちに理想のリーダーに求める資質のうち「誰か弱い立場の人を守れること」に重きを置いていることに気づく。

  これまで(大小に関わらず)ある社会での行動において「意志のある(と思い込んでいる)」自分の行動に対して、他の人の行動もまた、「異なる意志のある他の人の、異なる意志に基づく異なる行動」だと意識的に考えてきた。それに加えて昨今の溢れる情報の中で、自分と異なるものの感じ方(主に、悲観的な感じ方)に出会う。そうしてますます「自分は自分で、他人は他人」という思いを強める。多様性のコストだと思って、マナーと呼ばれるものに代表される「共通の規範」とか「常識」とか呼ばれるものからの逸脱行動については、結構意識的に許容レンジを大きめに取っている。それを「やさしさ」だと受け止めていただけるなら、それはそれで嬉しい。だがそこには「共通の規範に基づいて、目の前の他の人を『良い方』へ方向づけていく」という考えがあまりない。「なにが『良い』かは人それぞれで、自分は自分で、他人は他人で、それぞれ自分の意志に基づいた行動で、実際に痛い目を見ることで、行動を変えていけばいい」と言う具合にだ(その論理に則れば、「参加意志が表明されないということは、参加したいと思っていないのだから、参加しなくて良い」「そしてその後排除されようとも、それはその帰結である」ということになってしまう。それは大変ラクだが、結果的に個人の自由を尊重する反面で“排除ムード”の片棒を担ぐことになる)。目の前の人(もしくは自分)がそのコミュニティにおいて「良くない」方向へ行っていたとしても、それを止めることをサポートするだけのパターナリズム的考えが自分の中に存在しない。「誰かを守れるか?」という問いが頭をよぎるたび、なんとなく負い目を感じる。

  リーダーのような立場になければ、自分はただひたすら一個人として社会の、コミュニティの決まり事を疑い、その不必要な、もしくは過剰な部分について異議を申し立ていく「チャレンジャー」でいさえすればよかった。しかし、リーダーとして秩序を保つための決まりを作り、それに成員を(方法はどうあれ)「従わせる」ような…いわばその社会における「エスタブリッシュメント」側に回ることができるだけの「共通の規範」を、どこまで疑うことなく、所与のものとして受け入れられるだろうか。そうやって受け入れた「共通の規範」とか「常識」を(他の人には他の考え方がある、と強く思いながら!)盾に、どこまでマイノリティを守り、包摂できるだろうか?大した権限もないくせに考えすぎだろうか。また、頭を冷やして出直してこようと思う。