「お式」と「マナー」

  結婚式とか葬式になると、次に出てくる言葉は大抵「マナー」である。それまで対してマナーも気にしてこなかったような人間が、なぜ突然「マナー」なのか。おそらくそれは結婚式と葬式には「喜びとか悲しみとか、単一の “感情カラー” がその場を支配して然るべきで、それに水を差すようなことがあってはならない(あえて水を差すような強い思いもない)」という前提が無意識のうちに働いている証拠だからではないだろうか。

  しかし改めて考えてみると結婚式や葬式においてそこにいる人が本当に単一の感情に染まっているかといえば、そんなことはないんじゃないだろうか。結婚式に参加しながらも、「あぁ、これでアイツのことを気軽に誘えなくなるな」とか「実は、ずっとあの人のことが好きだったんだけどな」といった一抹の寂しさを覚える人もいるはずだ。葬式にしても、喪失の悲しみはあれど、長い長い介護が終わったことや、故人の長い長い闘病生活が終わったことに対してちょっとした安堵の表情を浮かべる人もいるだろう。

   すこし話を広げると災害もそうかもしれない。災害の経験は本来はひとそれぞれ。同じ災害について、家族を失った人もいれば、家を失った人もいるし、一方で家や家族は無事だった人もいる。家や職場が失われたことでそれまで仕事仕事の毎日を送っていたような人が、改めて家庭や地域にも関わる人がいることを再確認するかもしれない。その人それぞれの経験について、文字通りそれぞれ異なるのに「大は小を兼ねる」的に「悲しみが皆の感情を支配していて然るべき」と無意識のうちに考え、「『マナー』があれば間違いない」と、自分で考えることを放棄してしまいがちだ(このことを話したら奥さんに「そこに感情の垣根を作った瞬間に自分ができる復興は閉ざされてしまう」と言われた)。