「違う」から始めましょう 忖度時代のインディヴィジュアリズム

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   仕事がいつなくなるかわからない不安からか日常生活においてもなお、「他人に認められなければ」と思うようになる。度重なる災害が起こるたび徒らに「やっぱり、きずな」とか「やっぱり、思いやり」と言ったことばが広まり、頭を埋め尽くすたびに、目の前の他人と自分との境界線が曖昧になる。「ひとのやさしさ」の名の下に他者の目を常に気にしているのだから、「負の協調性」が働き、その結果ある程度の治安や秩序を手に入れた。その代わりに相手の領域と自分の領域が曖昧になって、ますます他人と過ごすことが息苦しくなっていく。そんな時代にあって予想されるのが個の尊厳の喪失だ。そこで再確認すべき「自分と他人の領域の独立性」についての概念図を描いた。

 

  このイラストの示すところは以下のようなものだ。

 

前提①相手の領域と自分の領域がそれぞれに存在する

前提②それらは壁によって阻まれていて互いに踏み込むことができない(許されない)

前提③両者を分かつ壁は相手の上半身が見えるくらいに低く、一見、相手のことが見えているように思われる

前提④互いの足元にはそれぞれ、相手には見えないタマ(事情:自分をそうさせるもの)が転がっている

前提⑤自分の足元に転がっているタマ(事情)がどのようなものかはコミュニケーションによって伝えることができる。同様に相手の足元のタマ(事情:相手をそうさせるもの)は自分からは見えず、コミュニケーションによってしか知ることができない。

 

   このイメージを応用することで、不安を解消することができることもある。

   他人から何か嫌なことを言われた時(「言わせておけばいい」と言葉では言うが、それは簡単なものではなく「人生の永遠のテーマ」レベルで難しいことだと思う)、イメージから前提①と②を取り出して「相手が何と言おうとも、相手は相手の領域の中で好き勝手に喋っているだけ」「私とは違う領域で喋っているだけ」という考え方をすることができる。

   他人が自分を誤解していると感じたとき、イメージから前提④と⑤を取り出して、「自分にはこれこれこういう事情があって、こうしているのであって、あなたの解釈は誤解である」と伝えることことをサポートしてくれる(コミュニケーションで伝えても、相手は決して自分の足元に転がっているタマ(事情)を自分の目で確認することができないので、誤解は完全には解消されないかもしれない。その代わり、自分の領域に踏み込むことができないので、相手が自分の足元に転がっているタマ(事情)を取り上げて、「だったらこうすれば良い」などと安易なマウンティング助言して尊厳を奪うこともできない)。

   自分が他人からどう思われるかを気にして相手に尽くしすぎてしまう時も、前提④と⑤を取り出す。自分は壁の向こう側からしか相手に施しをすることができない。相手の足元にどんなタマ(事情)が転がっているかは、相手が洗いざらい話でもしない限り、知ることができない。何が相手のためになるかは、結局のところ、相手しか知らないのであって、して欲しいこと・しないで欲しいことは、最終的には相手の口から語られるしかない。

 

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