「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか

   ボランティアの人々に動いてもらう際に、既にやることが済んでしまってやることがない(与えられない)と怒り始める人に時々出会す。僕は、怒りは「不安」、さらに噛み砕いて言うと、あらゆる「わからなさ」から来ていると考えている。だとすれば、手が空いたことで「やる事はないのか」と怒り始めるこの人々について「アンガーマネジメント力が足りない人たち」で片付けるのではなく、 この人たちは何が「わからない」のだろう?という問いからさらに掘り下げることができる。手が空いているという状況で休むこともできず不安になり、やることがあてがわれないことで怒り出すこの人たちが「わからない」でいるのは「いつ、自分が『役に立たない者』とみなされ、排除されるか」ということではないだろうか?そして、この種の人々が最も、「役に立たない人間は排除されるべきである」という優生思想に強く囚われた、かわいそうな人たちではないだろうか。それと同時に、僕たちは優生思想からフリーであると言い切れるだろうか。

 

  「人間を、能力の高低や便益の大小で選別するのは仕方がない」。これに対して明確に「NO」を突きつける事ができるだろうか?もしこれを完全否定できたとして、これまで当たり前のようにに世界に存在してきた入試選抜や資格試験、公務員試験、その他テストによる選抜方法は、一体なんだったのだろうか? という問いに迫られる。 印象や上位者の好みで不明瞭なプロセスで選抜されることに対するアンフェアを許せない僕たちは、知らずのうちに「それは、(合格するだけの)能力がなかったんだから、仕方がないよね」という公平さと「これさえクリアすれば良い」という明確さからくる安心感をそこに認め、求めているはずだ(一方で「何を改善すれば良いのか」が極めて不明瞭なオーディションや就職面接に落ち続けると大ダメージを受ける)。

 

   今月16日にやまゆり園事件の植松被告に死刑判決が下った事は記憶に新しい。虐殺についてはこれまで報じられてきた判例から多くの人々が死刑という判決に大いに疑問を呈する事はないだろう。しかしこの死刑判決そのものが「生きている意味のない命」を肯定することになってしまうこと、それが植松被告の主張そのものであること、被告の死刑を肯定することを通じて正義の側に立ったつもりが、皆の心の中にある優生思想の表出を暗示してしまい、社会に大きな影を落とした。

  さらに植松被告は一貫して「社会には社会性・生産性のない人まで包摂し養う余裕がない」と主張してきた。「社会には本当に(能力のない者を養う)余裕がないのか?」という問いについて明確に「そんな事ない」を突きつけられる(突きつける“べき”ではあっても)ロジックを僕は知らない。少なくとも、その必要に迫られて効率化・省力化を進める社会にいながらにして、肌感覚では「そんな事ない」と言い切れない。それをほとんどの人が冒頭の「公平で安心な能力による選抜の容認」をもって受け入れ、暗黙裡として内包しているはずだ。「能力による選抜」をより一層強く信じる人々でかつ「役に立たなければ包摂されないのに、実際に自分は役に立っていないかもしれない」にいう不安に駆られる者とって「役に立たないとみなされること」はなんとしてでも避けなければならない。本当に役に立っているかどうかは別として、少なくとも「役に立っている風」を装っていなければならない。 

 

   冒頭の状況に戻ると、「せっかく来てやったのに、どんな風に役に立って良いか分からない」「手が空いてしまい、役に立っていないように見なされると、この、余裕のない社会で、いつ排除されるか分からない」ー「分からなさ」、つまり「不安」から生じる「怒り」の根本をそこに見出すことができる。いつ排除されるか分からない不安に怒り、眉間にシワを寄せて「役に立っていること」を装いーさらには「自分より役に立っていない人物」の存在を作り上げてでもー自分を守らなければならないような、周囲を困らせる人ほど、「能力による選抜」に苦しんでいるはずだ。そしてそれは残念ながら長く続かない、自滅の道に続いている。もしも心のどこかで「いなくなって、ホッとした」と思ってしまったら、我々もまた、その人たちとおんなじサークルの中にいることになる。「合う合わないって、やっぱりあるわよね」「きっと、別のフィールドがあるわよ」とか言いながら。