前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る

「自分の労働の対価として報酬を得る」という前提を僕は勝手に「前提A」と名付けた。この前提Aは、極めてフェアである一方で、今後書いていく記事でも述べるが、社会の余裕を生み出す上でのネックにもなり得る。会社側にとって労働者を使役する都合の良い言い訳になったり、労働者自身も、過酷な労働環境に依存・過酷さを正当化する理由になったりするからだ。しかし、「コントラフリーローディング効果(苦労して手に入れたものほうが価値があると判断する脳の本質的なクセ)」はこの前提Aにうまく(?)マッチしてしまっている。そのようなことを踏まえながら今後この前提Aと合わせていくつかのことを述べていきたい。

仕事は無駄でもよいのかもしれない 屁理屈のはなし

   ボランティア、もしくは「気付きの労働(気づいたことはなんでもやれてしまう)」におけるワーカーに対して、いまの心境ならば自分が無駄だと思っている仕事(作業)を与えることができるような気がしている。チョッピリ。

   かつては(いや、今も割とそうだが)やることがなくて不安になり、怒りをあらわにするボランティアワーカー(「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.)に対して、そこにある不安に対する一定の合理性を認めつつも、その場しのぎの安心を与えてあげるための役割をご用意してサシアゲルことについてはかなり懐疑的であった。安心を与えるための役割をあてがう事が、本当に自分が必要だと思っていないことに他人を従事させたり、人々が自らできることを探す能力を否定したり、そもそも、役割がないとその場にいてはいけないというようなこと、「勤労こそが尊い」ということを暗に認めてしまったりすることになるからだ。さらには役割は役割であってもそれが「あてがわれた役割」「手加減の役割」であることは、割り当てられた人の尊厳を傷つけること(加えて、自分ならそうはされたくないと思うこと)だと考えてきたからだ。そこには自分なりのモラルによるブロックがあった。

   しかし「与える仕事(作業)が無駄でもよい」という屁理屈を2つ見つけた。一つには、ボランティアとプロジェクトリーダーは目的が全く異なるということだ。リーダーの目的は「プロジェクトの達成」だが、ボランティアの目的は「他者からの承認を得ること」と「(直ちに社会から排除されないための)やってる感・貢献感を得ること」だ。もしも、承認を得ることを求めていなければ募集に対して応募するという形を取らずにボランタリーという言葉の示す通り、既に自発的にやるべきことを始めてしまっているはずだ。リーダーが仕事・作業を「プロジェクト達成のための手段」と考えるのに対し、ボランティアにとっての仕事・作業は「承認・貢献感を得るための手段」だ。リーダーはプロジェクトが上手く進んでいればボランティアには休んでもらって構わないのだが、ボランティアからすれば承認を得るために働いているのだから、承認を得るための手段としての仕事・作業がなくて喜んでいる場合ではない。この辺は、一労働者としての我々が、巨大プロジェクト達成にどのように貢献するかどうかについては割とどうでもよく、そんなことよりむしろお金を得るための仕事がなくて素直に喜ぶことができないことと似ている。

   もう一つは「無駄な仕事であれ、何かしらの仕事を通じて人々が活動し、承認を得て、そこから生じる自信で次の社会活動につながる方が、社会全体としては得策だ」というものだ。これはケインズの『雇用利子および貨幣の一般理論』おいて「公共事業は無駄でも良い」と書かれていたことから得たヒントだ。(僕が実際に読んだのは漫画版なのだが…)公共事業の目的はあくまでも仕事と雇用を創出することで市場にお金を回すことであり、その目的が達成されるならば、公共事業は無駄でも良い。「(失業者が増えた状況を放っておいて)大量の人的資本を遊ばせている方が、社会にとって無駄」「公共事業に使われる税金は賃金という形で家庭に戻る」「無駄な事業だからといってお金を死蔵するより、無駄であろうと公共事業を通じて市場にお金を回すことの方が、よっぽど有益だろう」そんなロジックで、どんどん無駄な公共事業を興すべきだと書かれていた。お金の部分を「承認」に置き換えると、無駄な仕事・作業であっても、承認を得たくて働く意欲があるボランティアを放っておくのに比べれば、何かしらの仕事(しかも、できるだけ多くの人手を必要とするような!)を見つけ作り出し、承認を得られる機会の創出を図る方が社会全体としては得策である、というような事が言える。

   これらの屁理屈を踏まえると、自分では無駄だと思っていても、何かしらの仕事や作業を作り出し、与える理由ができるような気がしている。特に、「自分の仕事の対価として見返りを得る」という前提の下では、「何もしなくともダイレクトに収入や承認を得る」ということが出来ず(ベーシックインカム制度などで仕事と収入が切り離されている場合、無条件の承認が保障されていると思われる場合にはその限りではない)見返りを得るためのワンクッションとして仕事がないといけない。しかし繰り返しになるが自分では特に必要だと思っていない。その場合の声掛けは「〜があるんだけど、やってみますか?」というものになるだろう。

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか

   ボランティアの人々に動いてもらう際に、既にやることが済んでしまってやることがない(与えられない)と怒り始める人に時々出会す。僕は、怒りは「不安」、さらに噛み砕いて言うと、あらゆる「わからなさ」から来ていると考えている。だとすれば、手が空いたことで「やる事はないのか」と怒り始めるこの人々について「アンガーマネジメント力が足りない人たち」で片付けるのではなく、 この人たちは何が「わからない」のだろう?という問いからさらに掘り下げることができる。手が空いているという状況で休むこともできず不安になり、やることがあてがわれないことで怒り出すこの人たちが「わからない」でいるのは「いつ、自分が『役に立たない者』とみなされ、排除されるか」ということではないだろうか?そして、この種の人々が最も、「役に立たない人間は排除されるべきである」という優生思想に強く囚われた、かわいそうな人たちではないだろうか。それと同時に、僕たちは優生思想からフリーであると言い切れるだろうか。

 

  「人間を、能力の高低や便益の大小で選別するのは仕方がない」。これに対して明確に「NO」を突きつける事ができるだろうか?もしこれを完全否定できたとして、これまで当たり前のようにに世界に存在してきた入試選抜や資格試験、公務員試験、その他テストによる選抜方法は、一体なんだったのだろうか? という問いに迫られる。 印象や上位者の好みで不明瞭なプロセスで選抜されることに対するアンフェアを許せない僕たちは、知らずのうちに「それは、(合格するだけの)能力がなかったんだから、仕方がないよね」という公平さと「これさえクリアすれば良い」という明確さからくる安心感をそこに認め、求めているはずだ(一方で「何を改善すれば良いのか」が極めて不明瞭なオーディションや就職面接に落ち続けると大ダメージを受ける)。

 

   今月16日にやまゆり園事件の植松被告に死刑判決が下った事は記憶に新しい。虐殺についてはこれまで報じられてきた判例から多くの人々が死刑という判決に大いに疑問を呈する事はないだろう。しかしこの死刑判決そのものが「生きている意味のない命」を肯定することになってしまうこと、それが植松被告の主張そのものであること、被告の死刑を肯定することを通じて正義の側に立ったつもりが、皆の心の中にある優生思想の表出を暗示してしまい、社会に大きな影を落とした。

  さらに植松被告は一貫して「社会には社会性・生産性のない人まで包摂し養う余裕がない」と主張してきた。「社会には本当に(能力のない者を養う)余裕がないのか?」という問いについて明確に「そんな事ない」を突きつけられる(突きつける“べき”ではあっても)ロジックを僕は知らない。少なくとも、その必要に迫られて効率化・省力化を進める社会にいながらにして、肌感覚では「そんな事ない」と言い切れない。それをほとんどの人が冒頭の「公平で安心な能力による選抜の容認」をもって受け入れ、暗黙裡として内包しているはずだ。「能力による選抜」をより一層強く信じる人々でかつ「役に立たなければ包摂されないのに、実際に自分は役に立っていないかもしれない」にいう不安に駆られる者とって「役に立たないとみなされること」はなんとしてでも避けなければならない。本当に役に立っているかどうかは別として、少なくとも「役に立っている風」を装っていなければならない。 

 

   冒頭の状況に戻ると、「せっかく来てやったのに、どんな風に役に立って良いか分からない」「手が空いてしまい、役に立っていないように見なされると、この、余裕のない社会で、いつ排除されるか分からない」ー「分からなさ」、つまり「不安」から生じる「怒り」の根本をそこに見出すことができる。いつ排除されるか分からない不安に怒り、眉間にシワを寄せて「役に立っていること」を装いーさらには「自分より役に立っていない人物」の存在を作り上げてでもー自分を守らなければならないような、周囲を困らせる人ほど、「能力による選抜」に苦しんでいるはずだ。そしてそれは残念ながら長く続かない、自滅の道に続いている。もしも心のどこかで「いなくなって、ホッとした」と思ってしまったら、我々もまた、その人たちとおんなじサークルの中にいることになる。「合う合わないって、やっぱりあるわよね」「きっと、別のフィールドがあるわよ」とか言いながら。

災害のあとたくさん寄せられた物品の数々を片付けていたら、9年前までタイムスリップした気持ちになった

   震災や社会的動揺がもたらした混沌とした状況は、きっとこれまで「(お金を払う)価値がある」とみなされなかったもの、「(価値の所在が不明瞭で)価値がつきにくかったもの」に価値を再び与えたのだろう。その名残を見て、我々が常に目指してきた「整った」世界では「価値のあるもの/ないもの」とがキッチリ分けられていることを痛感した。「価値あるもの」とみなされないモノや人々の営みが、「整頓」の過程で退場させられていく。そもそも、「整った」ピッチで戦うことを許してもらえないような寂しさも感じる。その寂しさは、「整った」世界を手に入れたことの副産物だ。

   混沌とした世界の中で、常にどうなるか分からない不安を抱えながら暮らしていくのと「整った」世界で、何となく明日を前提に暮らしていくのとどちらが良いかと、ポンと尋ねられれば、積極的に前者を選ぶ人はいないだろう。ただ、その残骸を見るにつけて、「価値のあるもの」としばらくみなされてこなかったものや、混乱と不安のなかで人々が、「ひょっとして、こんなもの、こんなことにも価値があるんじゃないだろうか?」と鉱石を掘るがごとく胸を躍らせ、むしろ生き生きと活動していたことを窺い知る。

   しかし、もう誰もいない。みんな、“価値のある” 本業に吸い戻されていった。“価値のない”ことをやっている暇など、ないからだ。明日、明後日、その先と、次々に“前提の”未来がやってくるのに、不安のままでいて良い、などとは思わないからだ。

 

追記:

希望がないわけではない。当時は、分かりやすい「困った人」の存在があって、分かりやすい「助ける理由」が存在していただけだ。本当に必要だと感じたら、ちょっとの恥を忍んで、小さいことから隣の人・目の前の人を助けることができる。たとえそれが空振りに終わったとしても、自分でその必要性を感じたことを、たとえ他者からの承認を得られなくとも、確かに大事にして、実行した。その事実が自分の中に残る。その積み重ねが、孤独の中の自信につながっていくと思う。ブームに乗っかる他人がいないからこそ、だ。

虚の耐えられない軽さ 実の耐えられない重さ

   先日職場で40人程度の「食堂」イベントを開催し、無事終了した。その後周りを見渡してみると、疲労感が見える。しかし、満足感や達成感のようなものも見える。安堵の表情も見える。自分としては常に「これでよかったのかなぁ」という気持ちに苛まれつつも、確かにホッとしてもいる。このイベントは決して自然発生的なものではない、人為的なものである。それを、事前にたくさんの精神的・人的・時間的リソースを割いて準備をし、当日イベントが「無事」終了し、「よかったね」とまとまってしまうところに、ある種のマッチ・ポンプ的虚しさを覚えてしまった。だからといって、この一連の流れを完全に否定することはできない。グルっと一周回って、多分このマッチ・ポンプが役立っている可能性を見出した。

   かなり大雑把に、拡大解釈的で恐れ入るが、(モノやサービスが安価に手に入れられるようになった、という意味で)これほど豊かな現代社会において、人間が「生きる」ことそのものに直結する仕事(これを勝手に「『実』の仕事」と読んでいる)はずいぶん少なくなっているんじゃないだろうか?昔は各人が農業コミュニティにガッチリ結びつけられていて、コミュニティの成員が食料の生産に携わったり、家を作ったり、寒さを凌ぐための薪を調達したり、とか。分業が進み、会社ができて、その全国ネットワークができ、コミュニティにはそれら「実」の仕事が必要なくなった。人々はそれぞれ巨大なシステムの一部分として働き、そのシステムに寄与してくれた報酬を受け取り、手にしたお金で様々なモノ・サービスを、境なく手に入れることができる。そのためには、報酬を手に入れるだけの口実がなくてはならない。その「口実」が本当に他人のQOL向上に役立っているかは、口実としての仕事がなされて初めてわかる。いや、遠すぎてわからないかもしれない。そうした「口実」を「『虚』の仕事」と勝手に呼んでいる。先に書いたイベントなどというのは、「虚」側に分類される。

   いま、自分のしていることが「虚」に溢れていてその意味を見失ってしまう。頭では「きっと誰かの役に立つ」と分かっていても、感覚としての手応えが得ることができない。そのような「虚」の耐えられない軽さが、若い世代を、「コミュニティ的なもの」「農業的なもの」へと向かわせる(これをそれぞれ「ネオ・コミュニティ」「ネオ・農業」と呼んでいる)。しかし「ネオなもの」はあくまでも「虚」に溢れた便利すぎる世の中の上があって成り立っている。自分の食料を全部自給しなくて良いからこそ、家に縛られず、いざとなれば地域との関わりを断つことができるからこそ、「ネオ」なものは達成される。いわば大手キャリアの回線があって、それを分けてもらうことで成り立つ格安SIM的なもので、もし一部の人の反感を買うとすれば、結局一部の強者が“自由な"選択のもとで、ベースとなる「虚」に溢れた世界からさも「いち抜けた!」とばかりに「ていねい」を喧伝するところにあるのだと思う。

   というのも、どっぷり「実」に浸かるというのも、人々から希望を失わせるものだと思うからだ。正論という正論が通用しないものだから、先人たちが積み上げてきた歴史の中で、その理由もわからぬまま、暴力的に「あり方」を叩き込まれたり、近すぎるばかりに不必要な人間関係トラブルに巻き込まれたりする可能性がある。コミュニティの繁栄のために、個は重視されない。いや、そんなことはどうでもいい、安定的に食料を手に入れられるかわからぬ状況下、明日への希望を前提にできないこと、今日を生きるのに精一杯、とか自分の行いが自たちの生に直結している、というのも、エキサイティングでありながら、非常に重くのしかかる。長続きしなさそうだ。

 

(こんな記事を見つけた。地域共同体幻想

先述の原始的な生き死に関わるまではいかなくとも、「実」の関わりにおけるプライバシーのなさにはきっとみんなウンザリしていたのだと思う。)

 

   そんなわけで、今あえて目指せるのは「ネオ」的なものしかない。それを「虚」の仕事の世界の他に、自分で持っておくこと。それをあえて喧伝することもなく、自分たちのものとして考えられるか、そこで直面する「実の絶望」「コミュニティの絶望」の中を泳いで行けるか、だ。それをサポートしてくれるのは「虚」の仕事の存在なのかもしれない。「虚」が私たちの絶望を、うまく紛らしてくれる。

 

 

アウトサイダーとしてのエリート意識 について

   『そして、暮らしは共同体になる』という本がセールになっていたので読んだ。新品で読んだのと、Kindleで読んだのに続いて3回目だ。その中に「丁寧なくらし」を志向するマインドに潜む「順応を拒否し、社会の外部にいて社会に適合しない」という立ち位置としての「反逆クール」的アウトサイダー意識が取り上げられていた。そこには

 

(もし、その立場を取り続けるならば)「一般大衆とは群れの一部であり、組織の歯車、愚かな順応の犠牲者である。浅はかな物質主義の価値観に支配され、中身のない空虚な人生を送っている」「自分は体制に騙されたりしない」「愚かな歯車ではない」という哲学・ストーリーの中に自らを、他者を、置き続けなければならない

 

的なことが書いてあった。アウトサイダーを気取るためにはいつまでも「あいつは騙されている」という設定でいなければならない。

 

  実のところ、大衆は「騙されている」というよりは、大衆が大衆であるが故に、効率の良い大きなシステムに取り込まれた結果、個としてリスペクトされる部分が結果的にオミットされる、というのが本当のところだと思う。

作りたいものありき

  PCはあくまでも作りたいものを作るためのツールに過ぎないのであり、基本的には(というのは、PCによるPCのためのPCのものはPCしか作れないから)「PCの使い方がわかれば、何かできるようになる」というものではない。作りたいものありきのコンピューターだ。コンピューターは覚えるには絶望的と言えるほど様々な機能があり、自発的に作りたいものなしにその使い方単体を「教える」「教わる」というのはそれぞれなかなか絶望的だ。作りたいと思うゴールがあって、それについて都度使い方をくねくね道を進むように調べながら、「PC勘」というのを培いつつ作り方を覚えていく、という順番が正しいと思う(これはギターについても似たように考えていて、楽譜やTAB譜で「弾く弦」を覚えればよい、というのではなく弾きたい曲、弾きたいメロディがあって、それを弾くためにはどうすればよいか、調べて、実現する、ということを繰り返して「ギター勘」が身につくと思っている。そんなわけで、教本を用いてのステップアップには度々失敗している)。

  逆に言えば、コンピューターがなくても作りたいものは作ることができると思っている。そっちの方が時間がかからないのであれば、極端な話手書きでも良い。「時間がかからないのであれば」。そして、人・時間に十分な余裕があれば、の話。