善意がこわい

   「一日に30分だけ!」という宣伝文句が付くものはたくさんある。ストレッチ・ヨガ・ウォーキング・読書・英語・筋トレ…どれも「やるに越したことはない」ことで、耐えず上昇することを迫られている人々の「やったほうがいいと思ってるんだけどね…」という思いと「できていない自分」へのコンプレックスを駆り立てるようなものだ。それらを一日に30分ずつ行うと、少なくとも3時間は必要だ。積極的な「やる理由」があるならまだしも、「やらない理由がないから」と色々詰め込んでしまっては、1日の時間はほとんどそのようなルーティンによって回収されてしまう。もちろん、これは例えばの話であり、この程度なら可愛いものだ。

 「しないこと」には、リソースの有限性以外に理由がない。

その有限性さえ、数値で示すことができればよいのだが、心理的コスト・体力的コストはそれが不可能だ。

   善意がこわい。善意で仕事をする人がこわい。善意のボランティアも、ときどきこわい。善意は基本的に間違いじゃないからだ。間違っていないこと・やるに越したことはないこと・やらない理由がないことに対して、管理に回る人間は人的・金銭的・時間的リソースが有限であることを絶えず認識しながら、際限なくに発生しうる「やるに越したことはない」正論と対峙し、ときにその「善意の実行」を止めたり、優先順位をつけたりする必要がある。その優先順位の付け方は、必ずしも個人のそれとは一致しない。

 

弱者のステレオタイプ

   少し前の選挙の結果を見て、「あの身体障害者に何ができる!」と声を荒げていたジイさんがいた。僕は「どうか、そのような差別発言は辞めてほしい」と伝えた。そのうえで、「どうしてそのような差別心が芽生えたのか?」と尋ねると「定年退職後、警備員の仕事をしていたときに、(その人が勤めていた施設の)入り口で車椅子に乗った人の(何か)手伝いをしたところ、『さも自分は助けられて当然だ』という態度をとり、感謝もしなかったことに腹を立てた」と一つのエピソードを教えてくれた。差別的発言をすることが許されることではないとはわかっていながらも、そこに至った出来事から彼の中に芽生えた感情については全く理解できないものではない、とも思った。そこに一定の理解を示したことから事後的に、自分もまた「弱者のステレオタイプ」からフリーでないことも分かった。

   先日も触れた『若者は社会を変えられるか?』という本で、我々の社会には「私の辛さは大したことじゃない」という認知フレームが存在していて、その認知フレームを前提に互いの関係を律する態度が一般化していることが指摘されている。その認知フレームの中において、辛いとすればその辛さは自分の責任だから、正直に辛さを吐露してしまうことは、辛い状況に陥った自分の「ダメさ」を対外的に認めることになってしまう。他者に「ダメ認定」されることを回避するためにも、他人に心配されたとき、おそらく少なくない人がとっさに「大丈夫です」と即答してしまう。しかも、「自分の『ダメさ』を認め、他者に恭順の意を示す場合にだけ、同情を寄せられる資格が与えられる」のだから、その認知フレームにおいては(尊厳を傷つける)「ダメ認定されること」と引き換えに初めてサポートが与えられる、というのだ。そんな条件において、「助けて」くれた人に深々と感謝の意を述べることは、誰にでも容易にできることではない。弱者のステレオタイプにはまってしまうこと自体が、程度の差こそあれ尊厳を損なう可能性がある。

   我々は誰かを助けるときに、つい「助けられたひとは自分に感謝して当然だ」と多かれ少なかれ思い込み、期待してはいないだろうか。助けた後の感謝への期待と憶測について、かつて読んだ「未来食堂」の店主・小林せかい氏の記事を思い出した。

https://torus.abejainc.com/n/n7191702d6a94

小林氏は「未来食堂」における「ただめし券(詳細は記事を参照されたい)」についてこんなことを述べている。

ある時期ただめし券を毎日使う人が現れたことがありました。「どんな人でも使ってほしい」という思いとは裏腹に、懐の小さな自分はヤキモキしてしまい、そんな自分を自覚するたびに「本当に自分ははどうしようもない小さい人間だな」と自己嫌悪したこともありました。(「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」より引用)

仕組みで考えると、誰が“ただめし”をしても、お店が損することはありません。でも、単純に受け流せない自分が現れるようになった。

私は本当に俗な人間です。「お前が使う券じゃない」と、腹黒い思いが頭をもたげることがある。

そう。「困っている人は『本当に助かりました』と言ってありがたがるだろう」という憶測や期待は、自分が持っている「ステレオタイプ」ではないでしょうか。

   実際に本当に困っている人は、上記の認知フレームによって支えられている社会において、自己の尊厳を守るためにも、実際には「困っています」「助けて」なんて言うことができない。それどころか、「助けた」なんて思ってくれるなよ、とさえ思っているかもしれない。ひょっとしたら、「ただめし券」を毎日使ったその人物は、「辛さ自己責任認知フレーム」によって辛さを表出できないか、もしくはただ、毎日「ただめし券」を使っているだけなのかもしれない。「ただめし券」に「困っている人に届け」という願いがあっても、その事情を事細かに説明させることは「誰でも」に反するし、何をもって「困っている」かを一方的に決めることはできない。冒頭の車椅子の人についても同じだ。それでも「本当に助かりました」とありがたがる人の想定が十分にあることから、わかりやすい「弱者のステレオタイプ」は我々の中に十分に存在しうる。助かったかどうかは、助けられた人が事後的に判断するしかないのに、だ。

 

がむしゃらさは 生活を守るもの なのかもしれない

  ここ数年の僕にとって、がむしゃらな(実効性の薄い、ガンバっている風に見える)労働スタイルは「生活を壊すもの」だと考えてきた。それを生むようなムラ社会的考え方や・前時代的な勤労イデオロギーを心の中で非難し戦ってきたつもりでいる。しかし、最近になって気づいたことは、一部の人々にとってはそうした身を粉にしてでも「やっている風」を装うような労働スタイルはむしろ「生活を守るもの」なのかもしれないということだ。同じスタイルであっても、見え方が180°異なるのだ。だから批判すべきはブラック労働へと傾きがちな心性ではなく、むしろ、たとえブラックへのベクトルを持った労働であれ、それによって守られなければならない状況をこそ、だ。その状況を問題視し他人と考え方の違いで対立することこそあれ、その他者を憎まないこと。

 

   4年前の自分で書いた記事からいきなりブーメランを喰らった気になった。

   そこには「『できなくても良い』などという慰めは要らない。たとえやった『気』でもいいから貢献感が欲しい。そうでないと、その場所にいられない。職場にいられないと、生活の糧を得ることができない。そのために周囲の人たちは貢献感を得られるような環境づくりをするべきだ。」という旨のことが書かれている。ウっ…。だからこそ、たとえ実効性が薄かったとしても、非効率的だったとしても、その場所にいることで、メンバーとして確保されている限りにおいて生活が保証されるならば、「やっている感」でもって排除されないことに腐心することは想像に難くない。

  また僕は同じく4年前に、非正規として働く人たちは一体どんな人たちなのか?という記事を書いていた(同じく、非正規パートとして働いていた自分目線からの記事である)。

 労働力市場で正規社員として「選ばれざるもの」というような意識に基づく自尊感情の低さ(のようなもの)が、自分の味わわされた大変さを、後進に押し付けようとする。そうでなければ、それまでそのやり方で通してきた自分の立場がなくなってしまうから、ひいては生活の糧から切り離されてしまうからだ。ましてや、日給月給ならばなおさらだ。かくして、自らの生活を守るべく、ブラックな働き方を続けざるを得ない。これはそのような状態に陥るのを回避したいという思いを強める正規社員にも「今の立場を保持しなければ」という強い圧にもなる。

 先日読んだ『若者は政治を変えられるか?』という本では「現代のような困難の度合いが強ければ強いほど、心配されたときに『大丈夫です』とつい即答してしまう(から、社会が用意する足場が届きにくい)」という問題点を指摘していた。その背景には「『ダメ認定』の回避」があるという。「私の辛さは大したことじゃない(辛いと感じるならば、それは自分の責任である)」という認知フレームを前提にして互いの関係を律する態度が前提視されている社会において、「助けて」と声を上げることは、すなわち自分の「ダメさ」を認めることになるからだ。そのような態度のもとでは「自分のダメさを認め、“強者”に恭順の意を示す場合にだけ、同情を寄せられる資格を与えられる」。つまり助けと引き換えに自分の尊厳を著しく損なうことになる。それを避けるためにも、人々はなんとかダメ認定を回避しなければならない。いつ「ダメ宣告」されるか分からない状況にあって、「自分は弱者でない」ことを周囲にアピールし自分を守るためにも「やってる感」のある苦しみが目的化したようなワークスタイルを取らざるを得ない、というのも無理からぬことだ。

   『人はいじめをやめられない』という本を読んだ際に、こんな記事を書いた。

   「いじめはいけない」と繰り返し唱えられているにもかかわらず、人がいじめをやめられないのには、いじめがヒトの生存のうえで必要な機能だったことに由来するらしい。「突出した身体能力を持たないヒトは、集団をつくり、集団の成員がそれぞれのリソースを出し合うことで成り立っている」「自らのリソースを供出しない者は、集団の“ただ乗り”者であり、そのような者が増えると、集団が立ち行かなくなるから、ヒトはそうした『フリーライダー』を排除する機能を備えてきた。」という旨のことが書かれていた。仕事がどんどんオートメーション化されながら、労働時間が減らされることはない。本当は肉体的に楽になった分、余裕に溢れた勤務時間を過ごすことができるはずなのに、実際にそうはいかないのは、いくら仕事そのものが楽になろうとも「フリーライダー排除」を内面化したヒトが、決して暇を他人に見せることを許せるわけがないことでひとつ説明がつく。

   それが、たとえボランティアワークであろうとも、暇があっても暇に「なることができない」人々の不安は先日の記事で説明した通りだ。

 

   そのように考えると、がむしゃらアピールによって生きながらえようとする他者は、潜在的な弱者だ。がむしゃらな姿勢で取り組んでいることによってしか自らの「いる」を、ひいては生活を、守ることができないことを、潜在的に分かっているからだ。しかもそれは、他人が直接非難することはできない「これ以上いけない」案件だ。先述の「ダメ認定」を回避することに必死な状態の人々の尊厳を、これまた著しく損なうことになるからだ。

   さらに、これは全く他人事ではないととみに思うのだが、これほどまでに常識が目まぐるしく変化する世の中では、もはや必ずしも年長者であることや歩んできた時間の中で経験してきたことが、直ちに後進の役に立たないどころか、時代の流れの中であっという間に取り残される可能性もある。年長者であることは、もはやそれ自体が潜在的な弱みになりうる。その弱みを「がむしゃら」によってカバーするのは、ピークを過ぎた体力の面から言っても決して得策とは言い難い。そのような「がむしゃら」な職場から生まれた仕事から、無理から生まれた仕事から、余裕のない仕事から、過ごしやすい世の中が生まれることは到底考えることができない。

 

   「ブラック」とされるマインドや働き方によってさえ守られなければならない生活不安があって、そこにコロナ禍が拍車をかけた。「明日は我が身」だ。その不安を解消するためには、どうしたら良いのだろうか?自分にできるミクロなことには、どんなものがあるだろうか?自分にできないマクロなことであれ、ここで示したものの他にそうならざるを得ない事情ある程度理解する、ないしは思いを馳せることで、他者を憎まないでいることはできるかもしれない。

「役に立つ」を疑う

   本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気でステージから蹴落としたり、新しいステージに「適応」できない/しようとしない他者に何らかのレッテルを貼り差別心をあらわにしたりするー人間の間での災が「感染・拡大」していく傾向が容易に予想できる。差別や排除・迫害といった二次災害の「感染・拡大」を防止するために、僕たちはいま一度「役に立つ」を疑った方が良い。

   「無用の用」という言葉の示す通り、一見無用だとされているものが実は大事な役割を担っていることがある。

   直ちに役に立たないものとしての「余裕」がどんなメリットをもたらすかについてあまりに有名な逸話がある。アメリカ・ミズーリ州の救急病院・セント・ジョンズ医療センターの逸話だ。セント・ジョンズ医療センターでは手術室をひとつ開けておくことで、元々の手術スケジュールが影響を受けなくなったというのだ。

ミズーリ州にある救急病院、セント・ジョンズ地域医療センターは、手術室の問題を抱えていた。三二の手術室で年間三万件あまりの外科手術が行われていて、その予定を組むのが難しくなっている。手術室はつねに予約でいっぱいなのだ。二〇〇二年、この病院の手術室はフル回転だった。そのため急患が出ると‐そして急患は全仕事量の二〇パーセントを占めるのが通例だ‐病院はずっと前から予定していた手術を動かさざるをえない。「その結果、病院スタッフは午前二時に手術を行い、医師は二時間の手術をするために数時間待つこともしばしばで、スタッフはしょっちゅう予定外の残業をしている」

(中略)

ひとつの手術室を緊急手術専用にすると、病院が受け入れられる手術は5.1パーセント増えた。午後三時以降に行われる手術の件数は45パーセント減少し、収入は増えた。試行期間わずか1カ月で、病院はこの変更を正式採用している。それから2年間、病院の手術件数は毎年7~10パーセント増加した。

 

「いつも『時間』がないあなたに‐欠乏の行動経済学‐」 センディル・ムッライナタン&エルダー・シャフィール(著)、太田直子(訳)

ハヤカワノンフィクション文庫より引用

   それまで手術室はフル稼働だったのを、緊急専用として手術室をひとつ空けておくことで、元々の手術スケジュールが緊急手術の影響を受けなくなったばかりでなく、トータルで受けられる手術が増えた、というのだ。

   最近テレビシリーズが始まり、再び話題になっている「レンタルなんもしない人」のエピソードを見たり読んだりするにつけて「特に、役に立っているように見えないこと」を必要としている人がいることに気づかされる。「レンタルなんもしない人」の仕事内容は「ただそばにいるだけ」。「仕事でしくじってしまって翌朝出社するのが怖いので、一緒に来て欲しい」とか「今日で東京生活を終えて、地元に戻るので、東京最後の日を一緒に過ごして欲しい」とか「ひとりで焼肉食べ放題に行くのは寂しいが、友達と一緒にいると喋っている時間がもったいない」など、「特に何かをして欲しい訳でもなく、ただ誰かにそばにいてほしい」人々のニーズが浮かび上がってくる。「レンタルなんもしない人」本人が「簡単な受け答え以外できかねます」と宣言していながら、沢山の依頼が入る。「役に立たないこと」が必ずしも本当に役に立たないとは限らないことを思い知る。

   働きアリの法則も有名だ。働かないアリがいることで、コロニーが存続する。働かないアリ(余裕)は他のアリが働けなくなった時の「予備」であり、その「予備」がないと一斉に疲労で動けなくなってコロニーが滅びるのが早いという研究結果が発表されている。

   直ちに役に立たない余裕を持っておくことのメリットを外から持ってくれば上に述べた通りだ。しかし僕が心の底から主張したいのは「役に立っている自分をディスプレイすることに躍起になる」ことの弊害だ。

「自分が役に立っている」という思い込みを強めれば強めるほど、他人に寛容でなくなるし

ガンバッて、役に立っている(ように見せる)ことが目的になってしまう。

   コロナ禍を通じて多くの人が「社会的に直ちに役に立つことが難しい」状況をとくと味わっていることだと思う。コロナ禍は早く過ぎ去って欲しい。しかし、コロナ禍を通じて「社会的に役に立つ」を煮詰める方向ではなく、「社会的に役に立つ」にまつわる従来の考え方を改める方向を向いていける社会になればと思う。

やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

   「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」は多分、地続きだ。植松死刑囚の死刑を容認してしまうことがその主張を完全否定できないことをそれぞれの中に証明してしまい、それと同時に人々は自身についても「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」という考え方に苦しんできた。そしてそこにコロナ禍における「社会的に役に立つことが難しい」状況がトドメをさすように訪れた。その結果、今後(もう既に)現代人の公正世界仮説信仰があらわになり、平然と他者を蹴落としたり、差別心をあらわにしたりする出来事に人々が出会すようになる、と考えている。公正さを部分的にでも捨てるのは納得がいかないかもしれないが、僕たちは今一度「社会的に役に立つ」を考え直す必要に迫られているように思う。


「やることがなくて怒るボランティア」と「植松死刑囚の主張」は共にそれぞれ「社会的に役に立たない人はいてはいけない(これを最後まで煮詰めると「殺しても良い」というところ:優生思想までいく)」と言う点で繋がっている。ある日、郵送物を三つ折りにし、封筒に入れる作業を一緒にしていた近所の子供にさえ「オカくん、手が止まっているよ」「サボっているとみなされると、会社をクビになっちゃうでしょ」とひたすら手を動かすように指摘されてしまった。そこにも、「役に立たない人間は、存在してはいけない」の芽の存在を認めてしまい、ドキッとした。

  植松被告(当時) の死刑判決を「そりゃ、そうだ」と考え、明確なロジックでもって完全否定できなかった多くの人が大なり小なり「社会的に役に立たない人間はいてはいけない(殺されても仕方がない人間がいる)」と考えているはずだ(そしてそれが植松死刑囚のロジックそのものであることを突きつけられた人々の心に大きな影を落とした)。それと同時に「社会的に役に立つ人間は、存在して良い」という公正世界仮説(人間の行いに対して公正な結果が返ってくる、というもの)に基づく考え方を信じながら、そもそも何をもってして社会的に役に立っているかの明確な基準が存在しない中で、人々はとりあえず善(い行いをするように見える)人であるように努め、「社会的に役に立っている」実感(及びそれを満たしてくれるための作業・仕事)を、実は生活の糧としてのお金以上にひたすら求めてきたのではないだろうか。

 

   植松被告の死刑を完全否定できなかった人は「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という考え方を、言葉にしているかどうかは別として、多くの人が心のどこかに秘めていると思う(そうでなければ、やることがなくなったからと言って不安になるわけがない)。しかし、コロナ禍では社会的に役に立ちたくても立つことができない(難しい)。それでもなお「自分が社会的に役に立っているかどうか(ひいては、役に立たないものとして排除されないだろうか?)」という疑問を自らの中に強めてしまい、大変な不安が起こる。コロナ禍で人々が「植松死刑囚の主張」に大変苦しむ。それが表出し、増幅する。より一層、様々なレッテル貼りによる差別が横行することが予想される。

    コロナ禍で多くの人が「(これまで通り)社会的に役に立ちたくても立つことができない」状況にある。本当は無駄だとわかっていた(わかっていながらも、それが人の存在理由的なものと承認欲求を満たしてきた)仕事がどんどん炙り出されたからだ。対面でのやりとりが憚られるようになったからだ。そんな状況で、人々がわかりやすく「社会的に役に立てる」方法はずいぶん狭まってきたように思われる。それにも関わらず「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という、植松の論理と地続きの考え方は、それが世の理だとばかりに人々の骨の髄まで染み込んでいて「社会的に役に立っている(実感の得られない)自分は存在してはいけないのではないのだろうか?」という不安とともに人々を襲う。公正世界仮説に基づく「存在していい理由が得られないのなら、それは自分が社会的に役に立っていないからだ」という考え方が、その不安に拍車をかける。

   それでもなお、自らの存在を他者からの承認に委ねている状態の人々は「それでも何か、役に立つことをしなければ」と「自分にできること」を努力して探し、それをディスプレイすることに躍起になる。その中でも特に公正世界仮説を信じている人々は、「もし、自分にできることを見つけられなかったのなら、それはその人の創意工夫・努力が足りないか、見つける能力が不足しているからである」「その結果、苦しむことがあれば、それは自己責任だ」などという考えに陥る。

   かくして、本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気でステージから蹴落としたり、新しいステージに「適応」できない/しようとしない他者に何らかのレッテルを貼り差別心をあらわにしたりするー人間の間での災が「感染・拡大」していく傾向が容易に予想できる。既に現れているかもしれない。

 

   「社会的に役に立たない人間は、存在してはいけない」及び「社会的に役に立てば、存在しても良い」という公正世界仮説に基づく考え方は、たしかに人びとを良い市民であることへと方向付けてきた面もあると思う。ただ、何をもって「社会的に役に立つ人間」かの基準は全く存在しない。仮に恣意的に作り出された基準が存在したとしても、実際に「社会的に役に立つ人間だった」たかどうかは、その人が死んでもなお、永遠にわからない。いくらでも「役に立った」理由、「役に立たなかった」理由を付与することができるからだ。コロナ禍で「役に立つようにディスプレイするのが難しい」ことがマジョリティの人々の目に映ったいま、我々は立ち止まり「社会的に役に立つこと」と「存在しても良いこと・存在理由」を切り離し、そもそも既存の「役に立つ」という概念自体を改めて疑う必要があると思う。

ムダの役割と余裕のない社会

   ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。

   ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という状態を「余裕のある社会モデル❶」と勝手に名付けた。余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか - GoKa.)様々な弊害を生む。それに対して我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならない。「社会のシステムに置いて無駄が果たす役割」と、その結果どのような「余裕のない社会」が生まれるか、について、企業が労働者の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障(:下の記事で筆者が名付けた)」を踏まえて改めて考えたい。

 

   コロナ禍において多くの人が抱いているであろう「どうして日本はみんなに直接現金支給をしないのだろうか?」という疑問について、この記事を読んで少し合点がいった。「何かを支給するのに何でも間に企業を挟むのが日本流」とのことだ。ここにも「ムダな仕事」のニオイがプンプンしている。この記事で筆者は、雇用調整助成金の拡充を通じて企業に手当てを打ち出している政府について、「日本政府は(雇用対策としては)手をうっている」という見方をしている。

   もしも、政府が国民に直接現金を支給してしまったら、「(政府から国民に何らかのもの・お金を届けるための)ムダな仕事」がなくなってしまう。ムダな仕事がなくなってしまうと、ムダな仕事の報酬としてのお金が民間企業に回らなくなる。筆者の述べるように現在の日本は民間企業が労働者の生活の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障」状態だ。その状況下で、民間企業に仕事とお金が回り、企業は税金を納め、そこで働く人たちが賃金を得て、賃金から税金を納める、というプロセスを手放すわけにはいかない(筆者が述べているように日本は「正規雇用の解雇は世界で一番ハードルが高い国の一つ」だ。その代わりに、「政府がまず手始めに支えなければいけないのは、頑張って従業員を守ろうとしている企業」だという)。

   ムダな仕事であっても、民間企業に仕事が回れば少なくとも「企業が法人税を納める」「人々の行き場所を作り、包摂する」「賃金から税金を取れるし、賃金は家計に収入をもたらす」という結果が期待できる。これは、機能としてはめちゃくちゃすごいものだと思う。

   しかし、「会社にいてこそ、面倒を見てもらえる」という事からどんな社会が生まれるだろうか?まずみんなが会社での居場所確保に躍起になるのだから、会社という世間社会への同調圧力が生じる。その結果、整っているが、ギスギスしている社会が生まれる事が想像できる。その中ではいじめが横行したり、差別的行為が行われたり、会社にいる理由としてのムダな仕事は無くならない(それこそが、人を食わせる理由になっているのだから!)し、ムダな仕事がなくならない限り、長時間労働も改善されない。

   ムダな仕事と民間企業を通じて人々が食っている社会は、人々が地域社会・地縁社会とは違った形で、社員である限り包摂され生活の糧を得られるような、“システムとして”弱者に優しい社会であると同時に、個々人として、自分の立場を守るために平気で差別する社会にもなりうる。そのような社会が発展していくとは考えにくい。

余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)

この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.

植松死刑囚は一貫して「この社会には余裕がないのだから(社会性・生産性のない人まで包摂できない)」という主張をしてきた。僕は「そんなことない、この社会には余裕がたっぷりある」と明確なNOを突きつけるロジックを持ち合わせていなかった。直ちに「この社会は余裕がある社会だ」と言い切ることはできない。では「余裕のある社会」とはどんな社会だろうか?僕はそれを「ムダな仕事によって多くの人が賃金を得て、会社社会に包摂されている社会」なのかもしれない、と考えるようになった。

   改めて「余裕」という言葉の意味は下記の通りだ。

1 必要分以上に余りがあること。また、限度いっぱいまでには余りがあること。「金に余裕がある」「時間の余裕がない」「まだ席に余裕がある」
2 ゆったりと落ち着いていること。心にゆとりがあること。

出典:デジタル大辞泉

これを踏まえて、余裕のある状態とはお金や時間、人・モノなどリソースが必要以分上にあり、その結果、心や行動にゆとりをもたらしている状態のこと、ひいてはそのような状態にある社会を「余裕のある社会」と呼ぶことにする。現状、社会人が過ごす時間の大半が仕事または職場に費やされるであろうことから、いわゆる社会人にとっての社会生活はほぼ「仕事」に乗っ取られていると言って過言ではない。以下、「社会の余裕を作る」アプローチについて、「会社または仕事の余裕を作ること」を思い浮かべながら読んでいただきたい。

 

   「リソースが必要分以上に余りがある」という状況を作るには、2つのアプローチがある。ひとつめは、「リソースの量を変えず、そもそもの必要量を減らしてしまう」ということだ。「リソースは増えない」という前提に立つとこういうアプローチになる。例えば、人もモノも金も時間も増えないので、不必要な作業や工程を洗い出し、「無駄をカットする」というのがそれにあたる。もう一つは、「必要量を変えず、リソースを増やす」というアプローチだ。リソースが必要量に対して既に十分あるとわかっていながら、さらにそれを追加し、余っている状況を作り出す。「無駄をカット」が主流の現代社会ではなかなかイメージしにくいが、既に必要分を満たすだけの人・お金・時間・モノがある状態で、さらに余裕を作るために増員したり、お金を用意したり、投入時間を増やしたり、必要に備えて予備のモノを用意しておいたり、というのがそれにあたる。

   生産性の向上という観点から余裕を作ろうとすると、非効率な作業や工程をカットし、無駄を省くことによって余裕を作り出すことが求められる。省力化・省人化が進み、生まれた人的余裕を、何もしていない余裕として持っておく事ができれば、それが本当の余裕になる。しかし残念ながら大概の場合、無駄は洗い出せば洗い出すほどに見えてきて、それと同時に従来存在していた作業に従事していた人々がその立場を追われることになることは想像に難くない(本当は、省かれた作業に従事していた人たちを、その時点では余剰な人員として抱えておいて、非常時に活用する事ができて初めて、余裕があってよかったね、ということになるのだが…)。 旧来の馬鹿馬鹿しいムダ・非効率な方法・不当な年功序列をムダだと糾弾し、省いていくことにはある種の快感があるようで、次にムダだとみなされ、カットされるのは自分たちかもしれないことを忘れてはいけない。

参考:この国は“無駄”で食っている - Chikirinの日記

 

  一方、生産性のことはさておいて、「より多くの人が包摂されている」という観点から余裕を作ろうとすると、後者のアプローチが求められる。既に必要量を満たすだけの人がいる状況で、さらに人を増やすことで、余裕が生まれる。人が増えたら、無駄でも良いから、仕事を増やす。仕事が増えれば、人が要る。人が必要になれば、雇い口が増える。雇い口が増えれば、賃金として家計にお金が回る。かくして、前提A下ではムダな仕事があって、より多くの人々を取り込める社会が、余裕のある社会、ということになる。

前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る - GoKa.

 

  ただ、「より多くの無駄な仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という余裕のある社会モデル(それを「余裕のある社会モデル❶」と名付ける)は、どんどん合理化が進んでいて、無駄っぽく見えるものを許さない、まして、無駄を吊し上げる「正義中毒」な人々(これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく/脳科学者・中野信子さん | MYLOHAS)がSNSに蔓延る(その姿勢が、結局さらなる余裕のなさにつながっているとはいえ…)現代社会において実現がますます難しいのではないだろうか。無駄を無駄とわかっていてそこに労力を注ぐ事ができるだろうか。僕にはその自信がない。我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならないだろう。