高級食パンが面白いと思ったはなし
先日行ったイオンモール内にあった某高級食パン店でパンを買った。
①まず、常駐している店員が存在しない。ベルを押すと隣接している唐揚げ店から店員がやってきて、会計対応をしてくれた。
②当然だが、この手の高級食パンには一切のバリエーションが存在しない。当然、一個当たりの金額は同じだから、会計で入力する必要があるのは、食パンが「何個売れたか」だけだ。多分レジ打ちが楽だ(完全にキャッシュレスにしてしまえば、レジも不要になるかもしれない)。
③この手の高級食パンには800~900円という絶妙な価格が付けられている。食パンを買うにしては高いが、決して庶民の財布の紐を締めさせるような価格でもない。
④あまり価格競争をしなくて良いからこそ、こだわりの食材を使って、こだわりのパンを作ることができる。その分の価値はパンの価格に反映させる。客は多少高くてもその価値を認めて高級食パンを買う(ひょっとしたら、高いお金を払って買った食パンだからこそ、客もその美味しさを積極的に探そうとするかもしれない)。
⑤この手の高級食パンは、ちょっとした特別感を演出するのにちょうどいい。他の人へのちょっとした贈り物にしてもよい。小麦アレルギーでない限り、食パンはもらって困るものではないから基本的には贈る相手を選ばない。
⑥それに、この手の高級食パンは数量限定品のため、いつでも買えるとは限らない。ゆえに、特に高級食パンが食べたい気分でなくとも「買えるときに、買ってみよう」という気持ちを起こさせる。もし、お店の前に行列ができるようなら、行列がまた人々の注意を惹きつけ、話題にもなる。数量限定だから、売り切れたらそこで営業は終了だ。ひょっとして、スタッフは早く仕事を切り上げることができるかもしれない。
⑦客側も「何でパンがなくなったからって終わりなんだ!」と文句をつけない。買い求めたければ、早く来なければならない。
かくして、(同一エリア内に競合店が現れない限りは)「店が客に合わせる」のではなく「客を店に合わせさせる」ことができる。
ブルシット・ジョブは日本固有のものではない?
いま話題の本『ブルシット・ジョブ』を半分くらいまで読み進めた。まず驚いたのは、ブルシット・ジョブが日本に固有のものではないことだ。この本を読むまで僕はてっきり、いわゆるブルシット・ジョブ的な仕事は終身雇用と年功序列に代表される「日本型雇用」の産物であると思い込んでいた。さらにこれまた日本固有のと思われている「世間」の相互監視・同調圧力などが、しばしば槍玉に挙げられ (ながらもあまり変わらない?)る日本における生産性の低さの原因だと思っていた。ところが、しばしば働き方や労働観の理想として持ち出される、欧米をはじめとした諸外国においてもブルシット・ジョブは存在する。それが多くの人を苦しめている実態がこの本では書かれている。
仕事がブルシット化する理由と人びとの苦しみは、すごく大まかに言えば、こんな事ーーリアル・ジョブ(実質的な仕事)はシステム化され、そこから人間は疎外された。システムの欠陥を埋めるものとしての仕事(その多くがブルシット・ジョブ)を人間が担わなくてはならなくなり、人間はすっかりシステムの奴隷と成り下がってしまった。いま自らが従事している仕事は、(組織のネームバリューが与えてくれる誇りがなんとか自らを仕事につなぎとめてくれてはいるが)他者貢献の本質とはかけ離れていて、その仕事からは貢献感も、誇りも得ることができない。そのような仕事は暇であってもなくても退屈であり、もっとひどい時は、自分が仕事をすればするほど結果的に他者に害を与えることを知ってしまい、その罪悪感に精神と魂を蝕まれるーーなのだろう。
これをさらに噛み砕けば「仕事そのものはラクになったが、やりがいを失った」ということなのだろう。それならば本当は、(やりがいこそなくとも)楽になった分生産性は向上し、労働時間は短くなるはずだった。たとえ拘束時間内であっても、早く終わればその分を好きなことに充てるとか、コーヒータイムをたっぷりとるとか、アルコールも飲んじゃうとか、そんな国・そんな職場がある、という記事を読んだことがある。とりたてて「世間」というものが存在しないと考えられている諸外国において、「働いているフリ」は無用だと僕は考えていた。しかし、本書において多くの人が「働いているフリ」を(外から、ないしは内なる声から)強いられるというのだ。自分の・他人の、暇を許すことが誰しもできるわけではない、というのだ。
「暇」(および余裕)というテーマを考える上で、僕は冒頭で述べたような日本に固有の悪習(ちなみにそれらは、それらに乗っている限りにおいて人間平等主義に基づいたある種「やさしい」システムでもあるのだが・・・)の改革こそその鍵だと思っていたが、この本を読むにもっと違う角度からも考える余地がありそうだ。
今日はいったん、ここまで。
資本主義社会下では、簡単に「世間の住人」になってもいけない
『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』という本を読んだ。この本を手に取った理由の一つは身近な人が根っからの「世間の住人」であることだ。「自分はこうしたい」という意見を持たず、「世間では」とか「周りが」とか「〇〇という人もいる」という理由でことごとく足を引っ張ることに腐心する様を見たからだ。そればかりでなく、昨今のコロナ禍にあっても、「他人と違う行動をとる」ことがウイルスおよび不安の“感染”予防につながるにもかかわらず、
それでもやはり「他の人と同じ」であろうとすることには「世間」の同調圧力の存在を抜きにして語ることはできないと考える。では、日本で生まれ育った僕自身も全く無関係・理解不可能ではない、しかし「世間」という得体の知れないものは果たしていかなるものなのだろうか?そこから何かしらのヒントが得られるのではないだろうかと思った次第だ。
非常にざっくり言うと、読後、僕は「世間」についてこんな理解でいる。日本人の文化にはキリスト教文化のように「告解」を通した自らの内面の表出がないため、そこに「自己を発見する」ということがない。内面の表出によって自らを認めることができないため、承認を他者に求めることになる。それこそが、自分の存在証明になる。さもなくば、「存在論的不安(『どうして私は生きているのだろうか』という類の問いに苛まれること)」に陥る。それを全力で避けるために、「世間」というものを設けた。それに従っている限りは、所属意識からくる安心を得ることができる。所属するコミュニティの秩序も保たれる。
資本主義社会が台頭するより前は、それでもよかったのかもしれない。資本主義社会が台頭して以降、「世間」は資本主義社会における「強い個人」を前提にした行動原理に「アレルギー反応」を起こした。「そもそも個人というものを『世間』社会は持ち合わせていないのに、どうしろというのか⁈!」結果、「世間」は内部の結束(絆)を強めて、「ウチ」と「ソト」を明確に区別するようになり、「ソト」の者は徹底的に排除するようになった。「ソト」の者を排除することがまた、「ウチ」の結束強化につながった。つまり、資本主義社会の台頭に伴い、それまで持っていなかった「個人」を突然求められた「世間」は、「アレルギー反応」として「いいや、個人なんてあるわけないでしょwww」とばかりに個人の存在を認めない者同士で結束し「世間」の色を一層強め、「世間」から外れる者は徹底的に排除するようになったのだ。そこからの排除を恐れれば、多くの人が「世間」になびくことは一理ある。
だとすれば「世間」の結束、「ソト」の排除に対抗する方法は二つある。ひとつ目は、資本主義を何らかの手段で終了させる、というものだ。これはほぼ不可能と言っていいだろう。もう一つは、あくまでも「個人」を手に入れることだ。この本によれば、「個人」を手に入れるためには「内面」の発見が鍵になる。
僕たちはこの、スマホと共にあった10年間、日常的に自分の思いを匿名で「つぶやく」ということをしてきた。「告解」とSNSとで多くの場合異なるのが、フォロー人物・フォロワーのポストが、内面の表出先となる自らのタイムラインに並んで表示されてしまうことだ。それは、また新しい「世間」でしかない。理屈の上では、誰もフォローせず、自らのつぶやきに徹した場合に「告解」的な役割を果たす。しかしそれはなかなか難しい(僕は持ったことがないが、非公開の「裏アカ」ではそれが達成されるのだろうか?)。「つぶやく」代わりに、自分の内面を、それこそ、誰の目にも触れてはいけないような内面の告白も含め、ノートに書くことはそのための有効な手段になると考えられる。かくして認識した自分の内面を土台に、「僕は、こう思う」「あの人は、あのように思う」と(善悪や価値判断はさておき)区別することが「個人」獲得のサポートにならないだろうか。そうして得られた小さな小さな「個人」の芽が、孤独で弱いながらも「世間」という「共同幻想」の「対幻想」としてまずはポンとボールを投げることにつながる。
僕は曲がりなりにも「地域」というものを研究テーマにしている。さらに言えば、「嫌にならない地域付き合い」だ。「世間」を考えることは、「嫌にならない地域付き合い」を考える上で非常に重要だと考えている。その、「地域」には冒頭に述べたような「根っからの『世間』の住人」が少なからず存在する。根っからの「世間」の住人の個性はまた、根っからの「世間」の被害者だ。「世間」の被害者はまた、被害者の顔をして新たな被害者を生み出す、ゾンビのような存在だ。ただ闇雲に「失った昔ながらの絆を取り戻そう!」というスローガンのもとでは、自他の境界線が曖昧になった、「世間」の住人が湧くだけだ。良くも悪くも人とのつながりがある故に、資本主義の煽りを受けて排他的側面を強めた「世間」のはびこりやすい「地域」というものが、より過ごしやすい場所になるために、僕たちは簡単に「世間」の被害者になってもいけない。
災害ユートピアの一片を見た
昨晩、帰宅途中に交通事故現場に立ち会った。僕は本来ならば事故を目撃したであろうタイミングでその交差点にいたのだが、音楽を聴きながらスマホを見ていたせいで全く気がつかなかった。同じく居合わせて事故の瞬間を目撃したおじさんに「(交差点で立ち往生している車を動かすのを)手伝ってくれ」と言われたので、「やりましょう」と快諾した。一台は自走できたものの、もう一台の当たりどころが悪く、自走できなかった。ここからがすごい。するとおじさんはポケットからライトを取り出し、警察が到着するまでの間、インスタントな交通整理を始めた。すると数分後に20歳前後の、同じく通りすがりの青年が現れ、持っていたホイッスルとバンダナを取り出し(二人とも、よくそんな便利グッズを携行しているもんだ!)、おじさんと共に交通整理を始めた。僕は「ちょっとこれ持ってて」と、その場を一時的に離れたおじさんに手渡されたライトをそのまま青年に渡し(僕がやるとむしろ事故が起こると思った)、その後は彼が交通整理を引き継いだ。僕はとりあえず当事者と安全な場所に移り、保険会社への連絡を手伝い、あとは警察に引き継げるまでその場に「居た」。道路の処理がひと段落ついてあとは事情聴取、というころで、なぜか(ちょっと増しで言えば)現場は見ず知らずの人の集まりにもかかわらず、連帯感と笑顔と感謝で満ちていた。僕はそこに「災害ユートピア」の一片を見た。
「そんなことで」と言い続けられる人だけが、「幸福な不自由」のなかに生きられる
「ルールは破るためにある」などと豪語しつつ過ごしたことはなかったが、「ルール」というものがあくまでも“マス”の自律性を否定し、自由を制限するためのものであり、ときにそれが責任を逃れるために設定されるものであることを考えると、自由を得るためには「ルールを(一部)破り、しかしそれでいて自らの行動によって自律性の有効性を証明する」ということが不可欠になってくるのだと思う。だから、(程度の差こそあれ)自ら考え「ルールを破る」ということなしに自由は得られないし、「自由は争議的に勝ち取るもの」と言われてきた所以はきっとそこにある。
三日前、ピーチ航空の便でマスクの着用拒否を理由に途中降機を強いられた乗客が物議を醸している。
大多数の人はおそらく、「マスクくらいで」とか「飛行機の中だけでもいいんだからさ…」「周りの人のことを考えろ」などと思っただろう。そのような態度が、そのような態度を他人に要求するところから、(そもそももろいのに、意志の固さによってのみ保持される)自由はまさに、硬い岩盤にツルハシを打ち込むが如く、コツコツとヒビが入り、崩されていくもののように思う。従うことが求められる「ルール」や「決まり」が、おそらく多くの場合ある程度の合理性があり、決して全く受け入れられれないレベルではない(だからこそ、ルールとして機能し、多くの人に守らせることができる)。「『それくらい』我慢すればいいのに」「私なら、それくらい我慢する」の「それくらい」積み重ねが、結果的に自らの自由の大部分を捨て、他人の自由を捨てさせることにつながっている。もっとも、「円滑な社会生活のためなら、そんな自由は捨てても構わない」と思う人が多数を占める社会が、おそらく世に言われる「日本的」「“世間”社会」と呼ばれるものだろう。その結果生じた息苦しさ、閉塞感はそれぞれが感じているはずだ。だから、治安が良い。
切り口はどこにでもある。他の誰かにとっての「それくらい」が自分にとっては「それくらい」で済まされないとき、たとえそこにあらかじめエビデンスが用意されていなくても、いやむしろ、用意されていないからこそ、その不快感を表明し異議を唱えていくことが、「■■にまつわる自由」を獲得することにつながる。自由を得るためのこのプロセスが、不快感ー「それくらいで」と言われ、圧倒的数的不利な状況に立ち、孤独に陥り、ときに功利主義からは外れた論理で戦わねばならないーに満ちていることは言うまでもない。その不快感を味わってでも獲得しなければならないのが、自由であるならば、「争議的に勝ち取るもの」と言われる理由が分かるし、「角が立つ」などといって見過ごさず、闘うことをしない限り、「■■にまつわる自由」はあっという間に失われ、スタンダーダイズされてしまう。自由はあくまでもルール化されない。ルールを破っても大丈夫かどうかは、事後的に、既成事実によって(「ルール目的のためにマスを導く手段でしかない」ということが)示される他ない。事前に示されることがないので圧倒的不利であり、圧倒的孤独に苛まれる。それでもなお、マスク拒否の乗客を「そんなことで」と言い続けられる人だけが、「幸福な不自由」のなかに生き続けることができる。
関連記事
希望と絶望のボランティアワーク
「ボランティア」を勘違いしていないだろうか
災害が発生したとき、「ボランティアが不足している」という報道があった。それに対して、「『ボランティアが不足』ってナンだよ」という声がTwitterで散見された。本来、「ボランティア」は文字通りボランタリーな気持ちに基づく自発的な行為であり、労働力という観点からは「いればプラスになる」存在であり、決して「いなければマイナスになる存在」ではない。「その必要数を事前に想定して、『必要数に対する不足』を嘆くことそのものが、「ボランティア」の勘違いではないか」「本当に必要ならば、有償で業者に発注すべきではないか」という指摘がなされたのだ。
災害とは違うが、僕自身、ボランティア(本業と言えるものが他にあって、他の用事を自分の都合で優先させることができるという点で『責任』がない人)の協力を多分に得てプロジェクトを進めなければならない、という状況における難しさを感じている。ボランティアが、「来る」と言っていた時間に来ないことはもちろんあるし、来ることになっていたのに、連絡なしにドタキャンということも起こる。困る。もともとはその人にやってもらおう、と役割を「ご用意」していたのに、来ない。事前にその人が何らかの役割を担うことになっていたら、問題は大きくなる。他の人に穴埋めしてもらえるような役割でもない。ボランティアが来ないからと言って、嘆いても仕方がない。これは「ボランティア」を「無償の」という部分だけが一人歩きした結果だ。ボランティアにまつわる「協力してもらう側」「協力する側」双方の認識に問題がある。
ボランティアは「使う側」に不都合だからこそ、ボランティア
ボランティアを(非常に悪い言い方をすれば)「使う」側にとって、ボランティアは基本的にもともと不都合な存在だ。責任がないからだ。さらに言えば、不都合であるからこそ、ボランティアたるのだ。何度も繰り返すがボランティアはボランティアであって、責任がない(「一社会人として」などという説教は一旦脇に置いて)。ボランティアはあくまでもボランタリー(自発的)なものであり、かつ無償である。そこに責任(先述の通り)を持たせるには、有償でないといけない。ボランティアは、責任がないからこそ、ボランティアたるのであり、あくまでも「好きな時に来て、好きな時に帰ってよい」存在である。ボランティアを「都合の良い無償の働き手」などと考えているうちは、結局金銭以外のところで高いコスト(発生した問題解決にまつわる諸コスト)を払う羽目になる。じゃあ、無償でずっと都合の良いように動いてくれれば良いかと言われればそうでもない。先述の通り「不都合」でなければさらに不都合だからだ。
タダより高いものはない
「協力する側」が「タダで働くからには」と(金銭以外の)見返りや承認を求める意識が発生したり、「使う側」が「タダで働いてもらうからには」と金銭以外の見返りを用意したくなる気持ちが発生したりする。「好都合な無償の働き手」が今度は心的な重荷になる。そのような関係には明確な基準もなければ終わりもない。長く続けば続くほど、ジワジワと体力を消耗していく。どうしても返報性の原理が働いてしまいそうになるが、あえて、ボランティアはもてなしてはいけない。
ボランティアワーカーにとっては希望
ただ、ボランティアを「する側」にとっては希望もある。責任がないからだ。
イベントの協力依頼・参加の“依頼”(皮肉)、地元系アプリを介したお手伝い募集、その他、どこかの誰かの「要請」は探せば結構転がっている(町内会とかPTAは、無償×責任のコンボになりそうなのでちょっとグレーか)。履歴書もなければ面接もないので、責任も報酬もない代わりにちょっとの勇気さえ出せばヌルッとスルッと人の集まるところに入ることができる。ボランティアなので仕事レベルのスキルが求められることがない。責任のない仕事がゴロゴロ転がっている、ということは、自分のペースに合わせて、好きな時に行って、好きな時に帰るスタイルで、かつボランティアを募集する団体・チームの信用を使って、個人としての自分のスキルや経験値を伸ばすことができる。そこで発揮した働きが評価されれば、新しい依頼が入入ったり、そのスキルや経験が、個人・会社問わず仕事に結びつくかもしれない。そうやって自主的な「丁稚奉公」をすることで、責任のないところで、基本的に自分の好きなように、(広義の)社会経験を積むことができる。
注意しなければならないのは、ボランティアと「タダ働き」を分けるものは自分の中に意味づけがあるかどうかに委ねられるところだ。社会的意義などに惑わされることなく、あくまでも自分にとってその経験がどのような意味を成すかを積極的に設定(「純粋な楽しさ」を含む)して、他者からの承認を得るためではなく、自分のために、行う点だ。
「きめ細やかにお仕事をされていたことを感じました」
最近見ているドラマに『義母と娘のブルース』というものがある。その3話では、小学校のPTAの全面廃止を求めて闘う亜希子(綾瀬はるか)の姿が描かれている。これが誠に痛快だ。
事の発端は、亜希子が運動会におけるPTAのやり方の妥当性を、初参加のPTA会議で問うたことだ。ずっと前からその任に就いてきたPTAの役員は「新しく来た人に何が分かるのよ」と、亜希子の質問を受け付けない。結果、会議で角を立てたことで、亜希子の娘・みゆきは、PTA役員の母を持つ子供たちから相次いで約束のドタキャンを受ける。そういうわけで亜希子は「そのようなやり方で娘を苦しめる親たちの根城になっているPTAをぶっ潰せ!」とPTA廃止に向けた署名活動を始める。その中で、「あの人になってから仕事がやたらと増えて…」と愚痴をこぼす親がいた。
全校生徒の約3分の1の親からの署名を集めた亜希子は、改めてPTA役員にPTA廃止の申し入れをする。すると、PTA会長の矢野が「それならば、1週間後に迫る運動会に、PTAは一切の協力をしない」と挑発。「ならば、私1人で運動会を成立させてみせます」と、亜希子も譲らなかった。
途中まではなんとかなっていたものの、結局運動会の運営は元・スーパーキャリアウーマンの亜希子をしても一人では回らなかった。それを見かねて、数名の、署名活動中に亜希子に気にかけてもらったと思った親が自発的に協力を申し出た。それに触発されて、亜希子とは直接関わりのなかった親たちも、次第に亜希子に協力し始めた。さらには小学校の子供たちの手伝いもあり、運動会はたくさんの人々の自発的な協力によって終えられたのだった。
PTA会長の矢野からすれば、誠に面白くない。帰り際に亜希子とすれ違った矢野は「良かったですね、PTAが必要ないということが証明されて」と嫌味を言ってみせる。それに対して亜希子は「証明されたのは、やはり、PTAは必要だということなんじゃないでしょうか」と返す。
業務をスリム化し、(無断駐輪取り締まりのための人員を省くために)ハッタリの警官を置いたにもかかわらず、やはり、私1人では回りませんでした。証明されたのは、PTAという名であるかどうかはともかく、学校にとって保護者の組織はマストだということではないでしょうか。それに、この一日で私は何度も聞きました。「去年はこんなじゃなかったのに」「去年はやってくれていたのに」…
正直、そこまでやるから大変になるのだと思う部分もありましたが、ずっと矢野さんがきめ細やかにお仕事をされていたことを感じました。
ただ、理想と言われるかもしれませんが、保護者の組織は押し付け合いではなく、今日のようにポジティブに参加できる組織であってほしいと思います。そのための業務のリストラ・スリム化などの改革はなされるべきじゃないでしょうか…PTA会長!
僕にも「そこまでやるから大変になるのだ」と他人に対して思うことが頻繁にある。事を針小棒大にあげつらい、それで余裕をなくすスタイルを「おちごと」と呼んで揶揄してきた。それを「きめ細やかにお仕事をされていた」と表現するのはまことに秀逸だと感じられた。まず、相手のスタイルにリスペクトを与えたうえで、スリム化を提案する。
様々なことに気づき、ひとつひとつ「きめ細やか」に対応していくことそのものは悪いことではない。ただ、上の引用にもある通り、気づいた事を直ちに「仕事」化し、それを他人に割り振ることには検討の余地があると思う。本当に、やる必要があるだろうか?本当にそれだけのリソースを割く必要があるだろうか?といったようにだ。上の者が気づいたこと、思いついたことを、誰かに「やらせる」のではなく、それぞれがそれぞれの気づきや自発性に基づいて「ポジティブに参加できる」ために「業務のスリム化・リストラ」は必要だと思う。
気づいたことは「まぁ、やるに越したことはない」ことがほとんどだ。それに対して「やらない理由」を示すことは非常に難しい。主人公の亜希子にはその切り口を与えてもらったような気がしている。