じゃあ、自分にはどんなことができるかな

相手の事情を理解しようとするプロセスの中で、

自ずと視点は「自分は正しい。相手を変えよう」

というところから

「相手の事情と『正しさ』も一理ある。

じゃあ、自分はどんなことが出来るかな」

というところへ移っていく。


『貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち』

という話題の本を読んだ。

「若者はすでに社会の構造上、『貧困』を強いられている」

「若者の現実を大人はわかっていない」

「だから、若者はまず自分を責めるな」

という旨の内容で、

「本書をきっかけにそれぞれが

『じゃあ、どうするかな』を考えてみて欲しい」

と締め括られている。

一見サラッとしたこの締めくくりこそ、

この本の肝心な部分じゃなかろうか。


「これは、おかしい」と思ったことを発信し、

「そうだそうだ」というのは簡単なこと。

もちろん「これは、おかしい」というのは一理あるから、

自分を不必要に責めない。

そのうえで、だ、

でも、相手(この本では「社会構造」)にも

必ず何かしらの事情があって、

(ある一方から見て)「おかしな」ことになっているのだから、

それは、例え正論を振りかざしても

簡単には変わらないという前提で

「じゃあ、自分としては何ができるかな」

ということを考えた方が、よっぽど建設的。

選択肢は、いっぱいある。