僕はやりがいの搾取に「断固反対」できない

我々は市場経済を「持つ」状態から、 市場経済「である」状態に陥った

『それをお金で買いますか』(マイケル・サンデル著)

という本に書かれていたこのフレーズは、

僕が抱えていたある違和感を

見事に言い表してくれた。

市場経済とは本来社会が「持つ」機能であり、

社会そのものが市場経済ではない。

この原点に立ち返れば、

市場経済」と「評価経済」は

相容れないものではないと分かる。

僕らが目指していくべきは、

市場経済」と「評価経済」とのバランスを、

今では前者に大きく傾いているところ、

改めて後者寄りに調整していくことではないだろうか?


【そもそも、「評価経済」とは?】

市場経済」とは言うまでもなく、

市場を通じて財・サービスを交換する経済で、

そこでは価格が

売り手と買い手それぞれの

意思決定の調整役となっている。

一方、評価経済とは、

個々人が貯めてきた評価によって

何かしらの恩恵を享受することができる、

という考えだ。

これは、具体的な価格・貨幣を仲介としないのが特徴だ。

例えば、大学生が

「いつも○○ちゃんにはノート見せてもらってるから、

今日はうちでご飯食べていきなよ。何かつくるよ!」

というのもこれに該当する。


【「『やりがいの搾取』に断固反対!」する?】

「いいですか皆さん、 人の善意につけ込んで 労働力をタダで使おうとする それは、搾取です!!!」

「やりがいの搾取」という言葉は

きっとまだ記憶に新しいだろう。

昨年の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の

主人公・森山みくりの台詞だ。

商店街のオッサン達からの頼まれごとを

その対価が安いとして彼女はこう言い放ったのだ。

この台詞に対して、ネット上では

「よくぞ言ってくれた!」

「これぞ、ブラック企業につける薬だ」

という類のコメントが飛び交った。

僕はそれらが一理あると思いながらも、

手放しで「そうだそうだ!」とは言えない

ある違和感を抱えていたのだ。


【僕の違和感「それでお金を取りますか?」】

 

もしそれを「やりがいの搾取だ」と思ったら、

「それでも私は、その条件ではその仕事を

お受けすることができません」

と、拒否することもできるはずなのだ。

そこを、お金欲しさに

「正当な対価を!」と声高に主張して、

その時はキッチリ「正当な対価」を受け取ったとしよう。

きっと「もうあの人とは関わらないようにしよう」

という気持ちが誰かしらの心に生じるはずだ。

(例えば、

僕が親しい友人に「ギターを教えてくれ」と頼まれるとする。

僕はギター歴13年だ。

たくさん弾く日、ちょっと弾く日、全く弾かない日

少なく見積もって平均毎日0.1h(=6分)

弾いているとしても、

13(年)×365(日)×0.1時間=474.5時間

諏訪市の全職種の平均時給は1,041円/hだから、

そこに474.5を足して、ちょっとサービスして

「じゃあ、1,500円/時間で教える!」と言ったなら、

「面倒な奴だ」「結構良い額するのね」と思われて、

付き合いを無くすのがオチだろう。

それよりは、「オカがギター教えてくれるなら、

俺はその都度その日の晩飯作るよ!一緒に食おうぜ」

と言われた方が、よっぽど嬉しいし、

お互いに「負担感」がないから続く。)

つまり、短期的にはお金を取れても、

長期的には大して得をしないだろう、

という思いが「よく言った!」コメントへの

違和感の正体だ。

なんせ、彼らは商店を営むオジサンなのだ。

ちょっと期待以上の働きをすれば、

自分のところの商品を分けてもらったり、

そういう可能性を手にできたかもしれないのだ。

もちろん、「それは可能性にすぎない」という

反対意見もあると思う。

それでもなお、

ボランティア程度の報酬で引き受けるかどうか?

それに対して判断基準を示すならば、それは

「この先つながるメリットがあるかどうか」だ。

もし、今後関係を断ちたいなら、

「正当な対価」を主張し、実際にもらい、いっそ

「もう関わらないようにしよう」と思ってもらった方が、

お互いのためだろう。

ただもし、今後も良好な関係を維持したいなら、

その「正当な権利」を主張してしまうことは

長い目ではかえってマイナスになると思うのだ。

(ドラマのケースでは、

主人公・みくりの親友が商店を営んでいる

というから、良好な関係を維持するメリットは

十分にあると考えられる。)

ここには、絶妙な「市場の心理」が働く。

「この人と付き合うメリット」(=評価)こそが、

市場経済における需要の役割を果たし、

その評価が高まるほど、やってくる恩恵も高まる

(供給との均衡価格が高くなる)のだ。


【コンテンツでメシは食えない】

前の記事で述べたように、

コンテンツ・作業そのもののクオリティでは

カネ儲けができないくらいには、

お金儲けの仕組みは高度化している。

タダのものが増え、消費者の目が肥え、

モノにあふれて、

モノどころかサービスすら売れないこの時代、

商売について考え続けている企業ですら、

今売るとしたら、「感動体験を!」と

差別化(個別化?)を図ろうとしている状況だ。

それならいっそ、「コンテンツ・作業」を提供する

相手が近ければ近いほど、

良好な関係を維持したければしたいと思うほど、

コンテンツ・作業そのものは無料にして、

長い目で、お金では計れないベネフィットを

やりもらいするほうが、懸命だ。


【終わりに】

ただ一方で、

市場経済で取引されるべきものもある。

それは、需要が(技術的・時間的に)

自己生産・評価経済に追いつかないケースだ。

これに該当するのは、意外なことに

「食べ物(原材料)」や「生活インフラ」くらいだ。

これまでどんどん膨れ上がってきた

市場経済は、僕らの生活に

便利さをハイスピードでもたらしてきたことで、

ひとつの役割を果たした。

そしてその後、評価経済によって縮小する。

それは、自然な流れであり、

その結果、僕らの社会は

市場主義「である」社会から本来の姿、

市場主義を「持つ」社会へとまた戻る。

暮らしにかつてのような「共同体」への求心力が高まり

お互いに余剰な(←これが重要)リソースをシェアし、

必ずしもストレスフルな「労働」ばかりが

「生きる術」ではなくなる。

ただ、そのシフトには一つポイントがある。

「できる限りお金がなくてもやっていく方法」を

それぞれが模索していくことだ。

それが実現されない限りは、

いつまでも目の前にぶら下げられた

「お金」というニンジンを求めて

走り続けなければならない。

例え、「やりがいの搾取」でも。