「自分をいくつだと思っていますか?」 -「無年齢」を生きる

「今、自分は何歳だと思って生きているか?」

こんな問いから始めよう。

「そんなの、当たり前じゃないか!

自分は○○歳だから、○○歳として生きている」

と常日頃から思っているだろうか?それとも、

「25歳で、もうすぐ26歳になるけれども、

気持ちはたぶん、22歳くらい、いや、

17歳くらいでで止まっているかも?」

と思っている人もいるかもしれない

(ちなみに後者は僕の答えだ)。

人は一般に、

自分が何歳であるか気にして生きてはいない

というのが今回のテーマだ。


「無年齢」という言葉を知った。

ミランクンデラという人が提唱した言葉らしい。

『子どもが巣立つということ』という本に、

「無年齢」について記述がある。

年齢というのは、暦というものさしを 外から自分に押しあてて測ったものですから、 外の目線で自分を見ない限り出てこない概念です。 逆に人は、いつもこの自分の身体の内側にいて、 そこからこの世界を体験しているのですから、 年齢を生きることはできません。(中略) 人は常に無年齢のまま、 その時その時の渦中を生きている。 その渦中で自分を振り返って見る限り、 どこまでいっても 「成熟」にたどりつくことはありません。

自分は、内側の感覚からすれば、

確かに歳は重ねていくけれども

誕生日が来る度に内側からガーっと

何かが大きく変わるということはない。

20になったから、酒が飲めるとか

40になったから、ちょっと足腰が辛くなってきた、

とか、そういうのはすべて外的なもの。

自分より若い人の振る舞いを見るとか、

流行り廃りを目の当たりにするとか、そういった

相対的なモノサシなしには、

純粋に「気持ちが年をとる」ことはまずない。


例えば、フォークソングの集いに来るような

人たちは、大体もう50~60歳だから、

年齢というモノサシを当ててみれば

おじさん・おばさん、と呼ばれるのだろうが、

そこに「相対的な若さ」が認められない限り、

彼らの精神は、おそらく20歳前後。

それが、若作りだとして非難するでもない。

純粋に、その辺りなんだろうな、と思ったのだ。

第一、しばしば自分のことを「若い世代」に

カテゴライズする僕でさえ、

いつになったら自分のことを「若い世代」に

含めるのを辞めるかは、全くわからない。

「事を成すには若い」とか、「死ぬには若い」とか

そういう相対的な尺度を自分のなかに持ち出しては、

たとえ誰かに「もう無理するなよ」と言われても

いつまでも「若い」と言い続けるような気もする。

「年齢」というのはあくまでも外的要因によって、

折に触れて気づかされるものであり、

常に年齢を意識しながら

「もうこの歳になったから、こう振る舞おう」

という人は、あまりいないのではないだろうか。


そんな事を思えば、家庭や職場で、

自分の仕事が

「後進を育成すること」

へと切り替わっていくであろう年齢になっても、

「いや、自分はまだやれる(まだ、譲る歳じゃない)」

という風に思うのは、全く不思議なことではないのだ。

そういう理由から、

いつまでもプレーヤーでいたい、第一線でいたい、

そういう気持ちは、おそらく多くの人が持っている。

だとすれば、

「いつか自分の番が来る」ということは、

希望的観測でしかないことが分かる。

「世代交代せよ」というのは、正論だ。一理ある。

ただ、それと同時に考えなければならないのは、

「あなたの上の人は

いったい自分をいくつだと思っているのか?」

ということ。それからさらにもうひとつ考えよう。

「さぁ、あなたの番がくるのはいつか?」