「苦行〜自信説」と「いじめのタネ」のはなし

「苦行をこなしたこと」に基づく自信みたいなやつが、 簡単にいじめのタネになることを知った。

僕はかつて、「苦行〜自信説」を平気で唱えていた。

「これだけ辛い部活経験を乗り越えた暁には、 もう何だってできるような、自信が得られることを、 中学校の経験から知っている。

だから、僕は高校・大学と部活を続けてこれたし、 それらを最後までやり遂げたことを、誇りに思う」

こんなことを語る人間は、 きっとこの世の中にたくさんいると思うし、 僕もそのひとりだ。

「ひたすら苦行に耐え抜いた」という主観的事実は、 自分を「全能である」と思わせる効果がある

(「これからどんな困難も乗り越えられ」そうだと 思うことが、それに該当する)。

もしその「全能感(=自分はなんでもできる)という自信」が、 ちょっと歪んでしまうと、

例えば目の前の人が「これはできない」と言った時、 簡単に自分をスタンダードにして「お前の忍耐が足りないから」 という分析をしてしまい、 その人たちを容易に「忍耐」へと導こうとするかもしれない。

もしも、自分自身が「これはできない」と思った時に そこに潜む「これは、やりたくない」という気持ちに 「いや、自分は〇〇を耐えた。これも耐えられるはずだ」と 簡単にフタをしてしまったりするかもしれない。

すると、皮肉にも 「我慢できない人に、我慢ならなくなる」 というパラドクスが生まれる。

そうして、「我慢できない人」を 平気で攻撃するようになる。

このロジックこそ、「いじめのタネ」発芽のプロセスだ。

「なぜ、いじめは起こるのか?」を考える時、 『いじめの構造』はそれを論理的に示した非常に興味深い本

県立図書館で借りられるよ