「コミュニケーションと調和の課題」のはなし

「その時の自分の至らなさ」 「もっとああしていれば、上手くやれたかもな」

という冷静な感覚は、 その時自分の決心でもって 何かと別れたり、離れたりしたその時を起点にしたとき 常にディレイを伴って心に浮かぶ。

かつての恋人と別れる決意をしたとき、 かつての職場を離れる決意をしたとき、 自分のいる場所を誰かが去っていったとき、

そこから、 「もっとこうしていれば」という考えが浮かぶまでには 必ずと言っていいほど、タイムラグがある。 さらに言えばタイムラグなくしては 気づくことができない。

後から心に浮かんだ、

「もっと自分が上手くやれていれば、 別れたり、離れたりする必要はなかった」 「そもそも辞めなければよかった」 「そもそも離れなければよかった」

という感覚に対して

その通りか?と言われれば、全くそうではない。

むしろ、 その時ドップリと浸かっていたものから離れることなしには、 「もっと上手くやれた(かもしれない)自分」の 可能性に気づくことができるだけの余裕すら持てなかったのだ。

「じゃあ、それを今後の人付き合いに活かそうぜ、おれ!」 と励ましながら、

しかし卑屈になりすぎることなく、 自分の主義や主張と、それから、 自分を取り囲む社会の人々との関わり方を、 ゼロか100ではなく、 自分の考えをきちんと大事にした上で コミュニケーションを図りながら「調整」していく。

これは、今後ずっと僕たちに課された 「コミュニケーションと調和」の課題である。