「共同生活の本質」と「コミュニティのパラドックス」のはなし

本来、「共同生活」とか 「つながり」とかいうものは

「する」というような能動的なものではなく 場所を一緒にしたからという理由のみで 「なる」という受動的なもので、

「持っているリソースを分け合えばよい」 という、ある単一の合理的観点から それをシステム化してしまえば、

「リソースを持っていないものは、仲間に入れない」

という性質を帯びてしまう。

共同体にとって「望ましい」リソースを持たず、 「何かを生み出すわけでも、 何かの役に立つわけでもない」存在を 措定してどうやっていくか、 という問いを立てて実践してはじめて、

真の意味での 「共同生活」とか「つながり」に近づく ことができる

というのが今回のテーマだ。


最近読んだ本に 『フード左翼とフード右翼』という本がある。

その本の中で、

「食の生産、流通、消費にまつわる従来の流れを 根本的に変革するための『消費者自給農場運動』」

として結成された、 いわゆる「農業コミューン」の 「たまごの会」が運営する農園が取り上げられていた。

(ちなみに僕は、 休日といえば平気でマックを食べるし、 「自分の身体は100gあたり 50~60円前後で売っている鶏の胸肉でできている」 と言うほどには「フード」の観点からは「右翼的」だ。

一方、「モノとコトの消費」の観点からは 「このお店というシステムをこの場所に 保ち続けて欲しい」という小さな願いをこめて 情緒的なお金の使い方をするくらいには、 「左翼的」になってきている、と自認している。)

そこに書かれていた 「共同生活」についてのある記述に 僕はハッとしたのを覚えている。それは、

ここには、 「生産」に一切携わらない動物がたくさんいる。 彼らは、もちろん食用でもなければ、 何を生み出すわけでも、何かの役に立つわけでもない。 純粋にここで暮らす人間の友だちのようなものだ。 ここは商品を生む生産の場ではなく、 共同生活の実践の場であるという理念が、 こうした部分にも現れている

というものだ。

「つながり」とか「くらし」のようなものが 取り沙汰されるときに、

「自分にとって必ずしも都合の良くない他者」 「他人にとって都合の良くない自分」

の存在を含めた「共同生活」について、 理想論からは語られることがないからだ。


貨幣経済的志向からの脱脚を目指して 「つながり」という名のもとに展開される「共同生活」 (および、そこからちょっと広げた「つながり」) について考えるとき、

それがシステム化・目的化してしまったならば 「暮らし」の中にありながら「生産」の 色を帯びることは避けられない

(そりゃそうだ、こうした流れにおける 「“回帰すべき”理想の古き良き時代」においては、 巨大なシステムに頼ることなく、 自分でモノや食べものを生産するのが 当然だったのだから)。

共同生活がシステム化して、 強く「生産」の色を帯びるとどうなるか。

そのグループないしは共同体として 「望ましいスキル」を持つものだけを 仲間に入れて“サシアゲル”という状況ができる。

ワーキング・スキルだったり、 ソーシャル・スキルだったり、 望ましいわかりやすいスキル、

それがなければ、 せめていつでも呼び出し可能な肉体・労働力を

共同体のためにオープンリソースとして 提供する「限りにおいて」、 「つながり」の中の人と認めますよ

というところに、排外性が生じる。

表向きには、 「“持たざる”人々」の包摂・支援・自立を 目指した「オープンでソーシャルな」人々が集まって 「つながり」「コミュニティ」が 結成されたにもかかわらず、その構造上

「“持ってる”人々」に対してのみオープンである

というパラドックスに陥ってしまうのだ。

「何かを生み出すわけでも、 何かの役に立つわけでもない」他者の存在が 構造上、欠落してしまう。

(結果、脱・カイシャ的個人主義の行き着いた先に 作った新しい秩序のコミュニティの中に また別のカイシャ的全体主義的コミュニティが できてしまうのは、まことに皮肉なことだ)


僕は 「何かを生み出すわけでも、 何かの役に立つわけでもない」 存在としての動物たちの記述に 「共同生活」の本質を垣間見た気がしている。

加えて、 「共同生活」とか「つながり」といった テーマについて考えるとき、

自分のスキルを共同体の役に立てること

それよりもむしろ、

必ずしも自分に都合の良くない他者の存在、 他人にとって都合の良くない自分の存在

この両方とどう向き合っていくかを考え、

それを試行錯誤しながら実践することの方が、 その本質に近づくうえで重要ではないだろうか。