アドラーの「目的論」

「僕は数年前、火事で財産をすべて失った」 という話を聞いたら、その人は不幸せだと思うだろうか。

(もちろん、これは例え話であって、 実際に僕の身に起こったことではない。)

答えは「分からない」だ。

その人は、こんな風に思うかもしれない。

「あのとき、財産をすべて失ったせいで、 おれは今、苦しい生活を強いられている」 一方で、こんな風にも思う可能性もある。

「あのとき財産をすべて失ったからこそ、 今、自分や家族が無事で生きていることが 本当にありがたく、幸せだと思える。 確かに、復旧するまでは大変だけれども、 一つ一つなんとかしていくより他ない」

さらに言えば、当初は前者のように思っていても、 後から何かをきっかけに後者のように思うかもしれない。 その逆も然り。

ということは、人々は何かの事象に対して、 その時置かれている状況によって自ら意味づけをしているだけ ということが分かる。 そして、その意味づけをする理由は、その人の中に存在する。

それをアドラー心理学では「目的論」と言うそうだ。

「不幸せだ」と思う人には「不幸せだ」と思いたい理由や 自分が不幸せだと思う原因を火事に求めたい理由があり、

「幸せだ」と思う人には「幸せだ」と思いたい理由や 自分が幸せだと感じられるようになったことと 火事を結びつける理由がある。

もっと身近な例えで言うと・・・

ファミレスのウェイトレスがうっかり水をこぼして 客の服が濡れてしまったとする。

そうしたらその客は怒るだろうか? ―それも、分からない。

「服が濡れてしまった」という事実に変わりはなくても、

「まぁ、誰だってミスをするよね」と思ったり、 「ウェイトレスが可愛い女の子だったから」と思ったりして、 「いいよいいよ」と許すケースがある。

一方で、「おれの高い服を濡らしやがって!」と思ったり、 「こぼすなんてサービス業ではもってのほか」と思ったりして、 憤慨するケースだって考えられる。

違いは、その事象を受け取る人がどういう風に思うかにある。

「彼は失敗することが多い」という事実があったとしても、

「だからあいつはダメなんだ」と思う人もいれば、 「でも、こういうところはよくやってくれる」と思う人もいる。

どちらに目を向けるかは、その人次第。

もしも、周りに「お前はミスが多くてダメだ」と言ってくる人がいれば、 その人は自分のことをそういう風に見なしたい人なのである。 だから、自分側に100%の原因があると思うこともないのだ。

「じゃあ、自分はどうするか」

そこから考えましょう。