「労働とは、不本意なものである」
「労働とは、不本意なものである」
例えそこにやりがいを感じていようとも、 いわゆる労働とは突き詰めて考えれば
「他の人のビジネスを、お金をもらって代わりにやること」。
もし、本意なものならば、 例え給料が半分になっても、もしくは無給でもやる。 (それはここでいう「労働」から除外する。)
例えお金にならなくとも、 親は付きっきりで子供の面倒を見るし、猫の面倒も見る。
紛れもなく、「自分のやること」だからだ。
例えお金にならなくとも、 願わくば身近な人の力になれたら、と思って 自分の時間と労力を使う。 (もっとも、時間と労力を費やしているとも思っていないはずだ)
「自分がやること」だと思っているからだ。
そんな風に、お金にならなくとも既にやってしまっていることこそ、
自分の時間を費やすのに本意なものであり、
それこそが「自分のビジネス=自分のやること」だ。
(ここで「ビジネス」とはお金になるかどうかは関係ない。
「自分がやること」と無意識的に思っていることで、 社会全体に必要でない。
社会全体に必要でないからこそ、 「自分でなければ」のクオリティでいいし、 均質的なクオリティを出す必要もないこと。
そもそも、社会に必要な部分は文字通り「必要」なのだから 誰がやっても成り立つし、成り立つものでなければならない。)
だから、労働によって給料を得ることは、 「自分のビジネス」をなすための手段ではあっても、 最終的な目的ではないのだ。
労働していない時間を、労働によって得た給料で 消費行動に費やしてしまっては、
「働くために生きている」状態と変わりない。
本当は、「生きるために働く」のが不本意な労働の せめてもの目的のはずなのに。
「労働とは、不本意なものである」
という命題と合わせて、語られるべきもう一つの命題がある。
それは、
「自分の時間は、すべて本意なものである」
ということ。
これは「自分を信じる態度=自信」とほぼ同義であり、
そう認めた瞬間から、すべてが始まる。
何もしていない時間も、「浪費」と呼ばれる時間も すべて「そのときそうしたかったから」という本意に基づくもの。
第一、空いた時間ずっと何もしないなんて、 退屈すぎてできるはずがない。
だから、何もしていない時間さえ、 「何もしたくなかったから、何もしなかった」 という本意によるもの。
不本意な時間は、とにかく短い方がいい。