「秩序なき自由」がもたらす不自由と罪の代理人としての神仏について

  残念ながら僕の日常には「神様」というものは存在しなかったし、特に神仏への信仰に厚いわけでもない。しかしいわゆる「神」は我々にとって必要な存在なのかもしれないぞ、と去年を通じて考えるようになった。

  ちょっと話は変わって、2019年はこども食堂に継続的に参加した一年でもあった。その会場がたまたまキリスト教会だったこともあり、キリスト教的考えに想いを馳せることが何度かあった。それまでは「キリストが人々のために代わりに罪を償った」という漠然とした内容だけをストーリーとして知っていたのだが、そこに自分の解釈が見つかった。その解釈とは「その『罪』とは『個人が理性を持つこと』で、「個人の理性を以って他者がその個人を攻撃しないように、理性の代弁者の形を取ったものとしての神が存在する」というものだ。

  先日の記事では偏見や差別に触れた。Web記事やニュースを通じて差別問題に対してコンシャスなユーザーは差別や偏見をなくしていこうという心構えがあると思う(僕も「コンシャス」を内心では自称していたからこそ、自分の中にあった偏見や気づかぬ差別心があらわになったことが、ショックだった)。その反面で、従来の考え方のもとで初めて会った人の「(実/見た目)年齢」「性別」「ファッション」「持ち物」といった「属性」から相手がどんな人なのかをなんとなく推測する、ということをやってきたことは否定できない。逆に自分も、従来の考えに基づき、他人から見えるそのような部分に自分のアイデンティティ感覚の一部を表してきたとも思うし、その「属性」をその時属している社会によって少しずつ変えてもきた。そしてそこから激しく逸脱するような言動は、自ずとしなくなっていた。他者との言語/非言語コミュニケーションのなかで新たな発見があり、発見を通じて自己がマイルドに逸脱するプロセスの連続を経て、その社会での自分が拡張されていくーそしてその「属性感」がまた、「そこに回帰する」という“ある種の”秩序を形成してきたようにも思う。しかし昨今、様々な人々の活躍をたくさんの情報の中で目のあたりにしたことを振り返るたびに、もはやその「属性」とか「秩序」すらナンセンスなものになりつつあることがわかる。

   目立った形でなくとも、自分と他者の「属性」からフリーになった人々の振る舞いはTwitter上での匿名ユーザーの振る舞い方を見れば簡単に見つけることができる。基本的には個人の良心に委ねられているが、「個人の理性から発せられた言葉が、いかなるロジックであれ、一つの正しさとして社会になんらかのインパクトを与えるものとして直接飛び出していく」無秩序がそこにある。もちろん、そこには従来の差別や偏見を超えていこうとする現代の論理においては「より正しい」方も多分に含まれている。それを、従来の秩序をサポートする側の人間、さらに言えば既得権益側の属性を持つ人・そこに自分を同化させたい人たちが現代の論理において「より正しい」ことを喋った個人を非難することは想像に難くない。もしくは、非難を恐れて言論がさらに不自由になることも然り。

   そこから個人を守るのが「神」の存在だ。「神」の言葉は幅広い解釈を許す(だから、悪用もされる)。いかなる非難があろうとも「神様がそう言ったから」の先はない。そこで終わり、なのである(「お父さんが一番偉い(ということにしておこう)」という虚構もそこに通じるものがある)。あくまでも、神仏の教えに則っただけであり、教義という「秩序」に則ること自体には個人の気持ちも個人の理由もない。絶対的な正しさが存在しないからこそ、個人の正義が弱くて脆い。そんな状況下で、“ぼんやりとしてそれでいて絶対的な”正しさをもつ神仏という存在を「その必要があったから」作り上げて、そこに託そう。その理性は神の教えに則ったもので、私個人のものではない。その時点で個人に対する終わりなき非難・糾弾は“終了”する。

   「代理贖罪」というイメージからキリストの話を持ち出したが、必ずしもキリスト教に限った話ではない。逆説的だが「教義」という秩序において、それに儀礼的・形式的に特に気持ちも理由もなく従うからこそ、それを守っている限りにおいて、個人は守られる。そこから精神の自由や安心感を得ることができる。その代理人が神仏の存在だ、というのが僕の解釈だ。合理性も、意志も理由もない儀礼的行為が受け入れられる時代でもない。そんな無宗教の時代に、個人としてどこまで「罪」を背負えるだろうか。かと言って、全体主義の名の下に個の尊厳を蔑ろにすることは許されない。既に、そんな問題に直面している。