『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のメモと考えたこと

  「リベラル・デモクラシー」は自由主義(討論による統治、個人主義)と民主主義(同質性、何かしらのアイデンティティを共有)という「克服できない対立」を含んでいたにもかかわらず、生きながらえることができた。経済成長の時代には、多くの人がその分け前に与ることができたからだ。しかし低成長の時代になり、「克服できない対立」が顕著になった。かくして、自由主義的環境下で苦境にあるという(無意識的な)自覚がある状態にある人ほど、同質性に訴えることで「多様性なんてくそくらえ」とばかりにポリティカル・コレクトネスを批判したり、排外主義に走ったりする。そうやって、「自分もある同質グループの一員であるから、そのグループの内部において、広汎な平等の恩恵に与ろう」。人々の「右傾化」もおそらくここに通じている。

 

自由主義的に平等を口にしても、残っているのは『経済上の貫徹した不平等』でしかない。それでもなお『平等』という美しい理念に耽溺して、実際の格差に目を向けないつもりか。他人を放っておくつもりか。『どこまで救うか』という範囲決めをすることを恨むなよ。おれはなんとしてでもその『範囲』のうちに入らなければならない。そのためには『自由』とか『平等』とか、そんなこと言ってられる余裕はない。たとえ異質な人間を排除してでも、それでも、一部だけでも救ってるだけ、マシだろ」

 

そんなメッセージが聞こえてきそうである。

  これを踏まえて、なぜ差別が起こるのか改めて考えたところ、「差別をすることで得られるアドバンテージ」が存在するからだ。差別主義を自認していなくても、何かしらの差別心はおそらく自分の中にもある。そして、「差別をすることで得られるアドバンテージ」にすがらなくてはならない状態にある人ほど、差別心をあらわにする。例えば人種差別は人種という枠組みに自らのアイデンティティ・同質性を求める人々であり、その枠組みにおいて、救ってもらおうと考えなければならない人である。例えば男尊女卑的社会における性差別においては、「男性である」ということに、年功序列社会における年齢による差別では「自らが年長者であること」に、という具合にだ。そのような「差別主義者」は、他人を困らせているようで、実は自分が一番困っていて、なんとか“救われる”枠組みに入ろうと必死であることを、図らずも示していることになる。

  なんだかここまで他人事のように書いたが、【新たなテクノロジーの台頭】【好奇心の減退】【記憶力の低下】【身体能力の低下】【時代の常識の変化】これら全て必ず自分にも訪れるもの。「差別はいけない」。それは大前提だ。それでも、差別心をあらわにすることなく、自分を保つことができるだろうか?