教えるのが難しい時代に

  「(今は)先生よりもどうやら生徒の方が力関係が強くなってしまっている状況がある」「厳しく教えることが難しい時代に、じゃあ誰が教育するのかというと、最終的には自分で自分のことを教育しなければならない時代になってきたと思う」「それがすごく大切であることを覚えておいてほしい」

   たまたま見ていた「ニュース9」でイチローがこんなことを野球少年たちに話していた。「どうやら」とか「強くなってしまっている」という氏の言葉には若干の皮肉と指導者としてのあり方の模索を感じながらも、僕は個人のスタンスとしては(たとえ「答えのない時代」なんて言われなくとも)ずっと「教え、育てる」よりも「習い、学ぶ」ということを支持しているから、心のどこかで「うんうんやっぱりそうだよな」と思いながら聞いていた。

   ただちょっと引いて考えると、「自分で自分のことを教育しなければならない時代」になれば「教育」よりも「学習」が重視される。学習が自由になったからこそ、当然のことながら「学習格差」はきっとやってくる。学習することが好きな人、そうでない人、それは性格的なものもあるだろうが、生育環境・職場環境がそれを決める場合もある。何らかの理由で学ぶ楽しさを奪われる環境にいたとしたら、自ら課題を探し設定して学ぼうなんて思わない。しかも、指導者は厳しく教えることも難しい。結果、インプットには大きな差ができてしまう。

   「学び好き」をアドバンテージにすることもできる(いま、自分はそうしていると思っている)が、「学ばなかったこと」を「そりゃ、自己責任だよな」と、学習好き・学習嫌い、それぞれの人間が思うようになるんだろうか。何かを学びたい意欲は学ぶ楽しさを得られる環境下で、心・お金・時間・情報・身体、その他余裕があってはじめて生まれるものだと僕は思っているが、その余裕がなければ、さらには家のこと、自分のこと、仕事のことで毎日を過ごすので精一杯、と思っていれば、そんな気が起きるだろうか?という疑問も浮かぶ。ただ自分はその点においてたまたま恵まれただけで「余裕は作るもんだ」と追い討ちでもかければ良いのだろうか。安易に「自己責任」を持ち出してしまいそうだ。

   厳しい教育、学ぶ余裕のない時代・環境によって「学びを奪われた人」が僕からまた学びを奪おうとすれば、それこぞ脊髄反射的に反抗してしまいそうだが、そこにあるそれぞれのナラティブ(その人のその語りを生み出す視点)それ自体は理解に苦しくないように見える。

  それと同時に、じゃあだからといって他人の学びを奪うのは許されない。たとえ身体が動かなくなっても「後進を教え、育てる」という役割が無条件的に残されてきた年長者から「(厳しく)教え、育てる」という一つの役割がなくなって(もしくはかなり減って)しまうことは自分も覚悟しておかなければならない。学習ツールがたくさんあるからこそ、「年長者だから」という理由だけではもはや指導者の立場を保証してくれない。自分に承認をもたらす手段を、自分に楽しみをもたらす手段を「教育」以外に確保しておく必要があるのだが、それもまた、「自己責任」になってしまうのだろうか?「教育」における暴力性を肯定するつもりはないが、その代償は確かにじわじわとのしかかってくる。それは、引き受けざるを得ない。あくまで教育は「折に触れて」だ。そんなことがみんな既に肌感覚で感じとれていて「やりたいこと探し」に迫られているのかもしれない。