虚の耐えられない軽さ 実の耐えられない重さ

   先日職場で40人程度の「食堂」イベントを開催し、無事終了した。その後周りを見渡してみると、疲労感が見える。しかし、満足感や達成感のようなものも見える。安堵の表情も見える。自分としては常に「これでよかったのかなぁ」という気持ちに苛まれつつも、確かにホッとしてもいる。このイベントは決して自然発生的なものではない、人為的なものである。それを、事前にたくさんの精神的・人的・時間的リソースを割いて準備をし、当日イベントが「無事」終了し、「よかったね」とまとまってしまうところに、ある種のマッチ・ポンプ的虚しさを覚えてしまった。だからといって、この一連の流れを完全に否定することはできない。グルっと一周回って、多分このマッチ・ポンプが役立っている可能性を見出した。

   かなり大雑把に、拡大解釈的で恐れ入るが、(モノやサービスが安価に手に入れられるようになった、という意味で)これほど豊かな現代社会において、人間が「生きる」ことそのものに直結する仕事(これを勝手に「『実』の仕事」と読んでいる)はずいぶん少なくなっているんじゃないだろうか?昔は各人が農業コミュニティにガッチリ結びつけられていて、コミュニティの成員が食料の生産に携わったり、家を作ったり、寒さを凌ぐための薪を調達したり、とか。分業が進み、会社ができて、その全国ネットワークができ、コミュニティにはそれら「実」の仕事が必要なくなった。人々はそれぞれ巨大なシステムの一部分として働き、そのシステムに寄与してくれた報酬を受け取り、手にしたお金で様々なモノ・サービスを、境なく手に入れることができる。そのためには、報酬を手に入れるだけの口実がなくてはならない。その「口実」が本当に他人のQOL向上に役立っているかは、口実としての仕事がなされて初めてわかる。いや、遠すぎてわからないかもしれない。そうした「口実」を「『虚』の仕事」と勝手に呼んでいる。先に書いたイベントなどというのは、「虚」側に分類される。

   いま、自分のしていることが「虚」に溢れていてその意味を見失ってしまう。頭では「きっと誰かの役に立つ」と分かっていても、感覚としての手応えが得ることができない。そのような「虚」の耐えられない軽さが、若い世代を、「コミュニティ的なもの」「農業的なもの」へと向かわせる(これをそれぞれ「ネオ・コミュニティ」「ネオ・農業」と呼んでいる)。しかし「ネオなもの」はあくまでも「虚」に溢れた便利すぎる世の中の上があって成り立っている。自分の食料を全部自給しなくて良いからこそ、家に縛られず、いざとなれば地域との関わりを断つことができるからこそ、「ネオ」なものは達成される。いわば大手キャリアの回線があって、それを分けてもらうことで成り立つ格安SIM的なもので、もし一部の人の反感を買うとすれば、結局一部の強者が“自由な"選択のもとで、ベースとなる「虚」に溢れた世界からさも「いち抜けた!」とばかりに「ていねい」を喧伝するところにあるのだと思う。

   というのも、どっぷり「実」に浸かるというのも、人々から希望を失わせるものだと思うからだ。正論という正論が通用しないものだから、先人たちが積み上げてきた歴史の中で、その理由もわからぬまま、暴力的に「あり方」を叩き込まれたり、近すぎるばかりに不必要な人間関係トラブルに巻き込まれたりする可能性がある。コミュニティの繁栄のために、個は重視されない。いや、そんなことはどうでもいい、安定的に食料を手に入れられるかわからぬ状況下、明日への希望を前提にできないこと、今日を生きるのに精一杯、とか自分の行いが自たちの生に直結している、というのも、エキサイティングでありながら、非常に重くのしかかる。長続きしなさそうだ。

 

(こんな記事を見つけた。地域共同体幻想

先述の原始的な生き死に関わるまではいかなくとも、「実」の関わりにおけるプライバシーのなさにはきっとみんなウンザリしていたのだと思う。)

 

   そんなわけで、今あえて目指せるのは「ネオ」的なものしかない。それを「虚」の仕事の世界の他に、自分で持っておくこと。それをあえて喧伝することもなく、自分たちのものとして考えられるか、そこで直面する「実の絶望」「コミュニティの絶望」の中を泳いで行けるか、だ。それをサポートしてくれるのは「虚」の仕事の存在なのかもしれない。「虚」が私たちの絶望を、うまく紛らしてくれる。