余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)

この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.

植松死刑囚は一貫して「この社会には余裕がないのだから(社会性・生産性のない人まで包摂できない)」という主張をしてきた。僕は「そんなことない、この社会には余裕がたっぷりある」と明確なNOを突きつけるロジックを持ち合わせていなかった。直ちに「この社会は余裕がある社会だ」と言い切ることはできない。では「余裕のある社会」とはどんな社会だろうか?僕はそれを「ムダな仕事によって多くの人が賃金を得て、会社社会に包摂されている社会」なのかもしれない、と考えるようになった。

   改めて「余裕」という言葉の意味は下記の通りだ。

1 必要分以上に余りがあること。また、限度いっぱいまでには余りがあること。「金に余裕がある」「時間の余裕がない」「まだ席に余裕がある」
2 ゆったりと落ち着いていること。心にゆとりがあること。

出典:デジタル大辞泉

これを踏まえて、余裕のある状態とはお金や時間、人・モノなどリソースが必要以分上にあり、その結果、心や行動にゆとりをもたらしている状態のこと、ひいてはそのような状態にある社会を「余裕のある社会」と呼ぶことにする。現状、社会人が過ごす時間の大半が仕事または職場に費やされるであろうことから、いわゆる社会人にとっての社会生活はほぼ「仕事」に乗っ取られていると言って過言ではない。以下、「社会の余裕を作る」アプローチについて、「会社または仕事の余裕を作ること」を思い浮かべながら読んでいただきたい。

 

   「リソースが必要分以上に余りがある」という状況を作るには、2つのアプローチがある。ひとつめは、「リソースの量を変えず、そもそもの必要量を減らしてしまう」ということだ。「リソースは増えない」という前提に立つとこういうアプローチになる。例えば、人もモノも金も時間も増えないので、不必要な作業や工程を洗い出し、「無駄をカットする」というのがそれにあたる。もう一つは、「必要量を変えず、リソースを増やす」というアプローチだ。リソースが必要量に対して既に十分あるとわかっていながら、さらにそれを追加し、余っている状況を作り出す。「無駄をカット」が主流の現代社会ではなかなかイメージしにくいが、既に必要分を満たすだけの人・お金・時間・モノがある状態で、さらに余裕を作るために増員したり、お金を用意したり、投入時間を増やしたり、必要に備えて予備のモノを用意しておいたり、というのがそれにあたる。

   生産性の向上という観点から余裕を作ろうとすると、非効率な作業や工程をカットし、無駄を省くことによって余裕を作り出すことが求められる。省力化・省人化が進み、生まれた人的余裕を、何もしていない余裕として持っておく事ができれば、それが本当の余裕になる。しかし残念ながら大概の場合、無駄は洗い出せば洗い出すほどに見えてきて、それと同時に従来存在していた作業に従事していた人々がその立場を追われることになることは想像に難くない(本当は、省かれた作業に従事していた人たちを、その時点では余剰な人員として抱えておいて、非常時に活用する事ができて初めて、余裕があってよかったね、ということになるのだが…)。 旧来の馬鹿馬鹿しいムダ・非効率な方法・不当な年功序列をムダだと糾弾し、省いていくことにはある種の快感があるようで、次にムダだとみなされ、カットされるのは自分たちかもしれないことを忘れてはいけない。

参考:この国は“無駄”で食っている - Chikirinの日記

 

  一方、生産性のことはさておいて、「より多くの人が包摂されている」という観点から余裕を作ろうとすると、後者のアプローチが求められる。既に必要量を満たすだけの人がいる状況で、さらに人を増やすことで、余裕が生まれる。人が増えたら、無駄でも良いから、仕事を増やす。仕事が増えれば、人が要る。人が必要になれば、雇い口が増える。雇い口が増えれば、賃金として家計にお金が回る。かくして、前提A下ではムダな仕事があって、より多くの人々を取り込める社会が、余裕のある社会、ということになる。

前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る - GoKa.

 

  ただ、「より多くの無駄な仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という余裕のある社会モデル(それを「余裕のある社会モデル❶」と名付ける)は、どんどん合理化が進んでいて、無駄っぽく見えるものを許さない、まして、無駄を吊し上げる「正義中毒」な人々(これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく/脳科学者・中野信子さん | MYLOHAS)がSNSに蔓延る(その姿勢が、結局さらなる余裕のなさにつながっているとはいえ…)現代社会において実現がますます難しいのではないだろうか。無駄を無駄とわかっていてそこに労力を注ぐ事ができるだろうか。僕にはその自信がない。我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならないだろう。