がむしゃらさは 生活を守るもの なのかもしれない

  ここ数年の僕にとって、がむしゃらな(実効性の薄い、ガンバっている風に見える)労働スタイルは「生活を壊すもの」だと考えてきた。それを生むようなムラ社会的考え方や・前時代的な勤労イデオロギーを心の中で非難し戦ってきたつもりでいる。しかし、最近になって気づいたことは、一部の人々にとってはそうした身を粉にしてでも「やっている風」を装うような労働スタイルはむしろ「生活を守るもの」なのかもしれないということだ。同じスタイルであっても、見え方が180°異なるのだ。だから批判すべきはブラック労働へと傾きがちな心性ではなく、むしろ、たとえブラックへのベクトルを持った労働であれ、それによって守られなければならない状況をこそ、だ。その状況を問題視し他人と考え方の違いで対立することこそあれ、その他者を憎まないこと。

 

   4年前の自分で書いた記事からいきなりブーメランを喰らった気になった。

   そこには「『できなくても良い』などという慰めは要らない。たとえやった『気』でもいいから貢献感が欲しい。そうでないと、その場所にいられない。職場にいられないと、生活の糧を得ることができない。そのために周囲の人たちは貢献感を得られるような環境づくりをするべきだ。」という旨のことが書かれている。ウっ…。だからこそ、たとえ実効性が薄かったとしても、非効率的だったとしても、その場所にいることで、メンバーとして確保されている限りにおいて生活が保証されるならば、「やっている感」でもって排除されないことに腐心することは想像に難くない。

  また僕は同じく4年前に、非正規として働く人たちは一体どんな人たちなのか?という記事を書いていた(同じく、非正規パートとして働いていた自分目線からの記事である)。

 労働力市場で正規社員として「選ばれざるもの」というような意識に基づく自尊感情の低さ(のようなもの)が、自分の味わわされた大変さを、後進に押し付けようとする。そうでなければ、それまでそのやり方で通してきた自分の立場がなくなってしまうから、ひいては生活の糧から切り離されてしまうからだ。ましてや、日給月給ならばなおさらだ。かくして、自らの生活を守るべく、ブラックな働き方を続けざるを得ない。これはそのような状態に陥るのを回避したいという思いを強める正規社員にも「今の立場を保持しなければ」という強い圧にもなる。

 先日読んだ『若者は政治を変えられるか?』という本では「現代のような困難の度合いが強ければ強いほど、心配されたときに『大丈夫です』とつい即答してしまう(から、社会が用意する足場が届きにくい)」という問題点を指摘していた。その背景には「『ダメ認定』の回避」があるという。「私の辛さは大したことじゃない(辛いと感じるならば、それは自分の責任である)」という認知フレームを前提にして互いの関係を律する態度が前提視されている社会において、「助けて」と声を上げることは、すなわち自分の「ダメさ」を認めることになるからだ。そのような態度のもとでは「自分のダメさを認め、“強者”に恭順の意を示す場合にだけ、同情を寄せられる資格を与えられる」。つまり助けと引き換えに自分の尊厳を著しく損なうことになる。それを避けるためにも、人々はなんとかダメ認定を回避しなければならない。いつ「ダメ宣告」されるか分からない状況にあって、「自分は弱者でない」ことを周囲にアピールし自分を守るためにも「やってる感」のある苦しみが目的化したようなワークスタイルを取らざるを得ない、というのも無理からぬことだ。

   『人はいじめをやめられない』という本を読んだ際に、こんな記事を書いた。

   「いじめはいけない」と繰り返し唱えられているにもかかわらず、人がいじめをやめられないのには、いじめがヒトの生存のうえで必要な機能だったことに由来するらしい。「突出した身体能力を持たないヒトは、集団をつくり、集団の成員がそれぞれのリソースを出し合うことで成り立っている」「自らのリソースを供出しない者は、集団の“ただ乗り”者であり、そのような者が増えると、集団が立ち行かなくなるから、ヒトはそうした『フリーライダー』を排除する機能を備えてきた。」という旨のことが書かれていた。仕事がどんどんオートメーション化されながら、労働時間が減らされることはない。本当は肉体的に楽になった分、余裕に溢れた勤務時間を過ごすことができるはずなのに、実際にそうはいかないのは、いくら仕事そのものが楽になろうとも「フリーライダー排除」を内面化したヒトが、決して暇を他人に見せることを許せるわけがないことでひとつ説明がつく。

   それが、たとえボランティアワークであろうとも、暇があっても暇に「なることができない」人々の不安は先日の記事で説明した通りだ。

 

   そのように考えると、がむしゃらアピールによって生きながらえようとする他者は、潜在的な弱者だ。がむしゃらな姿勢で取り組んでいることによってしか自らの「いる」を、ひいては生活を、守ることができないことを、潜在的に分かっているからだ。しかもそれは、他人が直接非難することはできない「これ以上いけない」案件だ。先述の「ダメ認定」を回避することに必死な状態の人々の尊厳を、これまた著しく損なうことになるからだ。

   さらに、これは全く他人事ではないととみに思うのだが、これほどまでに常識が目まぐるしく変化する世の中では、もはや必ずしも年長者であることや歩んできた時間の中で経験してきたことが、直ちに後進の役に立たないどころか、時代の流れの中であっという間に取り残される可能性もある。年長者であることは、もはやそれ自体が潜在的な弱みになりうる。その弱みを「がむしゃら」によってカバーするのは、ピークを過ぎた体力の面から言っても決して得策とは言い難い。そのような「がむしゃら」な職場から生まれた仕事から、無理から生まれた仕事から、余裕のない仕事から、過ごしやすい世の中が生まれることは到底考えることができない。

 

   「ブラック」とされるマインドや働き方によってさえ守られなければならない生活不安があって、そこにコロナ禍が拍車をかけた。「明日は我が身」だ。その不安を解消するためには、どうしたら良いのだろうか?自分にできるミクロなことには、どんなものがあるだろうか?自分にできないマクロなことであれ、ここで示したものの他にそうならざるを得ない事情ある程度理解する、ないしは思いを馳せることで、他者を憎まないでいることはできるかもしれない。