弱者のステレオタイプ

   少し前の選挙の結果を見て、「あの身体障害者に何ができる!」と声を荒げていたジイさんがいた。僕は「どうか、そのような差別発言は辞めてほしい」と伝えた。そのうえで、「どうしてそのような差別心が芽生えたのか?」と尋ねると「定年退職後、警備員の仕事をしていたときに、(その人が勤めていた施設の)入り口で車椅子に乗った人の(何か)手伝いをしたところ、『さも自分は助けられて当然だ』という態度をとり、感謝もしなかったことに腹を立てた」と一つのエピソードを教えてくれた。差別的発言をすることが許されることではないとはわかっていながらも、そこに至った出来事から彼の中に芽生えた感情については全く理解できないものではない、とも思った。そこに一定の理解を示したことから事後的に、自分もまた「弱者のステレオタイプ」からフリーでないことも分かった。

   先日も触れた『若者は社会を変えられるか?』という本で、我々の社会には「私の辛さは大したことじゃない」という認知フレームが存在していて、その認知フレームを前提に互いの関係を律する態度が一般化していることが指摘されている。その認知フレームの中において、辛いとすればその辛さは自分の責任だから、正直に辛さを吐露してしまうことは、辛い状況に陥った自分の「ダメさ」を対外的に認めることになってしまう。他者に「ダメ認定」されることを回避するためにも、他人に心配されたとき、おそらく少なくない人がとっさに「大丈夫です」と即答してしまう。しかも、「自分の『ダメさ』を認め、他者に恭順の意を示す場合にだけ、同情を寄せられる資格が与えられる」のだから、その認知フレームにおいては(尊厳を傷つける)「ダメ認定されること」と引き換えに初めてサポートが与えられる、というのだ。そんな条件において、「助けて」くれた人に深々と感謝の意を述べることは、誰にでも容易にできることではない。弱者のステレオタイプにはまってしまうこと自体が、程度の差こそあれ尊厳を損なう可能性がある。

   我々は誰かを助けるときに、つい「助けられたひとは自分に感謝して当然だ」と多かれ少なかれ思い込み、期待してはいないだろうか。助けた後の感謝への期待と憶測について、かつて読んだ「未来食堂」の店主・小林せかい氏の記事を思い出した。

https://torus.abejainc.com/n/n7191702d6a94

小林氏は「未来食堂」における「ただめし券(詳細は記事を参照されたい)」についてこんなことを述べている。

ある時期ただめし券を毎日使う人が現れたことがありました。「どんな人でも使ってほしい」という思いとは裏腹に、懐の小さな自分はヤキモキしてしまい、そんな自分を自覚するたびに「本当に自分ははどうしようもない小さい人間だな」と自己嫌悪したこともありました。(「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」より引用)

仕組みで考えると、誰が“ただめし”をしても、お店が損することはありません。でも、単純に受け流せない自分が現れるようになった。

私は本当に俗な人間です。「お前が使う券じゃない」と、腹黒い思いが頭をもたげることがある。

そう。「困っている人は『本当に助かりました』と言ってありがたがるだろう」という憶測や期待は、自分が持っている「ステレオタイプ」ではないでしょうか。

   実際に本当に困っている人は、上記の認知フレームによって支えられている社会において、自己の尊厳を守るためにも、実際には「困っています」「助けて」なんて言うことができない。それどころか、「助けた」なんて思ってくれるなよ、とさえ思っているかもしれない。ひょっとしたら、「ただめし券」を毎日使ったその人物は、「辛さ自己責任認知フレーム」によって辛さを表出できないか、もしくはただ、毎日「ただめし券」を使っているだけなのかもしれない。「ただめし券」に「困っている人に届け」という願いがあっても、その事情を事細かに説明させることは「誰でも」に反するし、何をもって「困っている」かを一方的に決めることはできない。冒頭の車椅子の人についても同じだ。それでも「本当に助かりました」とありがたがる人の想定が十分にあることから、わかりやすい「弱者のステレオタイプ」は我々の中に十分に存在しうる。助かったかどうかは、助けられた人が事後的に判断するしかないのに、だ。