社会は布マスクを受け入れた

   「アベノマスク」配布が決まった当初、WHOは布マスクについて、「いかなる場合も勧めない」としていた。

さらに「アベノマスク」配布が決まった背景には官邸官僚が「布マスクを配れば国民の不安はパッと消えますよ」という進言をしていたことがあるのだそうだ。

結局、「布マスクは勧められるものではないが、あくまでも国民の不安の解消(および医療用マスクの買い占めを防ぐ)のために」と配られたのが、布製の「アベノマスク」だったと言えよう。

 

   人々は当初、「アベノマスク」を酷評した。しかし、去年までは誰一人として感染症対策として着用していなかった「布マスク」の存在そのものはなぜかヌルッと受け入れた。「感染症対策」と銘打って市井の人々は手作りマスク作りに勤しみ(「手作りマスク作り」が目的なら集まっても良い、という謎のコンセンサスも一部存在した)、いつしか各メーカーからは各種布マスクが発売されるようになった。

 

   もしも、布マスクが「アベノマスク」配布時と変わらず「(性能では確実に劣るが)医療用マスクが手に入らない時期の代用品」という位置づけであったなら、医療用マスクが普通に手に入るようになった今頃はどんどん医療用マスクに「戻る」はずだ。ところが、印象としては変わらず布マスクを着用している人をたくさん見かける。マスクですらない、ハンカチやバンダナを折ってゴムを通したものや、「ネックゲートル」で顔を覆っている人もいる。たとえ手作りの布マスクであれ、飛沫が増えるとされている(新型コロナの感染予防、どの素材のマスクが最適? 布マスクやバンダナの効果は(堀向健太) - 個人 - Yahoo!ニュース)ネックゲートルであれ、着用している人に「おい、それでは密閉性が足りないだろう!」と怒り出すような人が現れるケースはおそらく確認されないだろう(「マスク警察」にはぜひ、そこまで頑張ってみてほしい)。「いいえ、医療用マスクは手に入っても、今時期暑くて息苦しくて…着けるならせめて快適なものを」と不織布よりも目の粗いメッシュの通気性重視のマスクを着けているのなら、目の細かさやその密閉性でもってウイルス対策となるはずの医療用マスクの本質から外れた「マスク状のサムシング」を着用していることになる(もちろん、中には高機能布マスクも存在するのだろうが…)。

今や、それがさらに曲がって「口と鼻を何かで覆ってさえいれば良い」という認識さえ出現した。「一番の罪は、目に見える部分での【無策】だ」「口と鼻を何かで覆うことが、他者への思いやりの証であり、それを欠くものはすなわち思いやりを欠く人物だ」と言わんばかりに。「口と鼻を何かで覆っていること」ーーそれを免罪符にして【密集・密接・密閉】に抵触するような活動をしている。他の「対策」は記録に残さない限り、目に見えないから。

   いずれにしても社会は玉石混交の「布マスク」の存在を受け入れた。そのような「布マスク」を、再び容易に入手可能にになった医療用マスクと比較して積極的な選択肢として受け入れたということは、結局、「感染症対策」のポーズを取った「世間対策」もしくは「対人対策」ということを示唆してはいないだろうか(もちろん、各種布マスクには飛沫防止にいくらかの効果が認められているが、医療用マスクに性能面で敵うとは到底考えられない)。布であれマスクの属性(:飛沫防止効果がゼロでない)だけを見れば、「あるに越したことはない」ということになるだろう。

   しかし、もっとシンプルな部分、「常に顔を何かで覆われていることの物理的・心理的不快感」については、おそらく多くの人に共通するはずなのに、「感染症拡大防止」の錦の御旗の元では決してその妥当性を認められることがない(「より快適なマスク」「よりオシャレなマスク」の着用は「諦め路線」の上にある)。その不快感の積み重ねは、「不快感」という言葉では表現しきれないのではないだろうか。不十分とわかっていてさえ、決して快適ではないと思っていてさえ、着用せざるを得ない理由(のようなもの)に哀しささえ覚える。

 

   僕が「布マスクを受け入れた社会」に対して危惧しているのは「正しくないとは言い切れないが、さして正しいとも言い切れないことを、不安の拠り所を求めて絶対化し、思考停止に陥り、相互監視が進むこと」および「その不安から、目に見える敵を作り他人を叩くことで安心を得ようとすること」「感染の要因はいくつもあり、誰でも感染しうるのに、マスクの有無(および、感染者が認められてはじめてその不完全さのみが浮き彫りになる「対策」)だけを取り沙汰して、あくまでも感染の責任を人に帰す」というようなことだ。本来は、マスクの着用について、マスクの性能・性質が「飛沫に効果がある」という事実を切り取って、「じゃあ、つけない理由はないよね」となるのではなく、「マスクの性能・飛沫防止の性質」そのものと、「密」を避けられるような状況かどうか・感染拡大エリアかどうか、といった状況判断と天秤にかけられるべきで、その結果、「着用した方がいい」と判断されれば着用し、「そうでなければ、外す」ということもまた、認められて然るべきだ。加えて恐れているのは、「布マスク」のようなものによって文字通り「口を封じ」られた人々の累積的な抑圧経験に加えて「他者を守ろう」といった「人道的な」連帯がますます「人様に迷惑をかけないように」という風潮を加速させることだ。そうして、孤独で手応えのないプロセスを経てなんとか手にした自由と文化を、不安のもとにパッと手放してしまい、失われていくことだ。そんなことなら、神頼みの方がよっぽどマシだ。