「手加減の役割」にある不誠実さ

   「仕事は無駄でも良いのかもしれない」という理屈を、とりあえず導いた。

   しかし、「手加減の役割」を、「なにか役割がないと居づらいだろうから」もしくは「頼られるときっと嬉しいだろうから」などと勝手に慮り、“あてがう” という策をどうしても積極的に採用する気にはなれない。

  そこにある、「本当にアテにしているわけじゃない」「故に本心からの感謝が生まれない」という不誠実さを、自分に許すことができないからだ。「人を頼る」ことを手放しに礼賛し、「まず、自分でやってみる(どうすればうまくいくか、試行錯誤してみる)」という大切なことを捨てさせるような論調には、そこにコミュニティに属する人々の参画可能性があったとしても、どうしても賛同できない。それが、他の誰かの「まず、やってみる」を妨げにもなる。または、「なにか役割がないと居づらい」からという理由で役割を作ることは、かえって「役割がないと居てはいけない」「ただ、いる、を許さない」とかいったことを追認することになりはしないだろうか。